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スレッドNo.798

四国遍路(4)    野田俊作

四国遍路(4)
2001年11月06日(火)

 またもや四国遍路に来ている。今回は、1番霊山寺から11番藤井寺だ。徳島県の吉野川沿いの村々をめぐる平坦な道だ。11番からはじめて山道になる。初めての人を何人か連れて歩いている。あまりにも歩き遍路が増えて雰囲気が悪くなったので、歩き遍路はしばらく休憩しようと思っていて、1番から11番のコースは今回でいったん終わりだ。来年、12番から17番を春、18番から23番を秋にまわって、それで、すくなくとも数年は遍路に来ることはないと思う。ひょっとしたら、一生もう来ないかもしれない。私も年だしね。
 途中、R.A.ニコルソン著,中村廣治郎訳『イスラムの神秘主義』(平凡社ライブラリー)を読んでいる。仏教の巡礼に来ながらイスラムの本を読むというと、変な顔をする人がいるが、私の中では何も違和感がない。それは、仏教やイスラム教などの制度としての「レリジョン」とはほとんど無関係に、瞑想者たちの体験としての「スピリチュアリティ」があって、これは、すくなくともその骨格部分は、宗教をこえて共通のものだと思っているからだ。また逆に、スピリチュアリティは、どのレリジョンとも、ある程度折り合いが悪い。
 歩き遍路は、私の中では、スピリチュアリティの側に属する行為で、レリジョンの側にいる寺院とは、いくらか折り合いが悪い。私が歩き遍路を通じて求めているのは、商売繁盛や家内安全のような現世での世俗的幸福でもないし、後生安楽のような来世での幸福でもない。かといって、「自己をみつめる」というようなクサい話でもない。歩くこと自体に目的があるのかもしれない。いずれにせよ、言葉ではうまく説明できないことだ。
 「これで最後かもしれないな」と思って歩いていても、たいして感慨はない。上述の本の中に、イスラム神秘主義と仏教を比較して、

 われわれはスーフィー(引用者注:イスラム神秘主義者)の「ファナー」(引用者注:宇宙的実在の中に個我が消滅する体験)を仏教の涅槃と無条件に同一視することはできない。両語共、個我性の消滅を意味するが、涅槃がまったく否定的であるのに対して、ファナーは神の中での永続的生命を意味する「バカー」を伴っている。スーフィーが神の美的観照の陶酔に我を忘れたときの歓喜は、仏教のアラハト(阿羅漢)の非情熱的・知的明澄性と完全に対照的である。(p.33)

 と書いている。著者の仏教理解は、はなはだ上座仏教風だと思う。大乗仏教は、もうちょっと熱狂的だよ。しかし、仏教風の「非情熱的・知的明澄性」はいくらか私にもあって、熱狂して遍路しているわけでもないし、遍路していないとき退屈しているわけでもない。どのみち、この世で出会うひとつひとつの出来事が「これで最後」なのだしね。だから、物理的に最後であることが、心理的な感傷につながらない。逆に、物理的には今後も続くことでも、心理的な感傷は常にある。



四国遍路(5)
2001年11月07日(水)

 心配事があると、なにをしていてもそのことを考え続けるだろう。たとえば、医者に「あなたはガンです。手術はできません。半年ほどの命です」と言われたら、ずっとガンのことを考え続けるだろう。悪いことについては、人間には、それについて考え続ける能力が備わっている。この能力を善いことについても使えるといい。そういうことを瞑想用語で「シャマタ(止)」といい、あるいは「心一境性」という。これは、そのことしか考えない「集中」とは違って、他のことを考えながらもいつもそのことを気にしている状態をいう。
 四国遍路に来ていると、あちこちに地蔵菩薩の石像が立っている。伝説によれば、地蔵菩薩は、釈迦如来が般涅槃に入ってから弥勒菩薩が成道するまでの間、悟りを開かないで六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)を輪廻して、出会う衆生を救済する菩薩なのだそうだ。石像に会うたびに立ち止まって合掌し、真言を唱えることにしている。そうしながら、菩薩の生き方についてシャマタしようと思う。3日間歩くが、3日間ずっと同じことを気にし続けるのは、なかなか努力がいる。
 むかしの瞑想者は、何ヶ月も何年も、同じテーマを気にして生き続けることができた。それだけ暇だったんだね。今は忙しい世の中で、普段の生活の中でそうすることが難しい。ガンにかかったって、忙しさの中で気が紛れてしまうかもしれない。悪いことでさえそうなので、善いことはまして気にし続けることが難しい。だから、ときどき四国遍路に来たりする。わざわざ旅に出なければならないのは、普段の生活が整っていないからなのだが、どうも今生にいる間には整いそうもない。

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