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スレッドNo.802

歴史という物語    野田俊作

歴史という物語
2001年11月11日(日)

 名古屋で仕事があって、行き帰り兵頭裕己『太平記〈よみ〉の可能性:歴史という物語』(講談社選書メチエ)を読んだ。楠正成をめぐる話なのだが、視点が構造主義的ないし構成主義的で面白い。序文に次のようにいう。

 芝居や講釈の世界でくりかえし再生産された「忠臣」正成の物語が、近世の幕藩国家においてある種の「開放」「革命」のメタファー(隠喩)として機能したことはみのがせない。もちろん原因は、正成の物語それ自体にあるのみではない。天皇と「武臣」という二極関係で構成された近世国家の物語的な枠組みじたいが、その対立項ないしは補完物として、くりかえし「忠臣」正成をよびおこしていたのである。(中略)日本の近世・近代の天皇制は、太平記〈世界〉というフィクションのうえに成立する。ポール・リクールふうにいえば、歴史(イストワール)とはすなわち物語(イストワール)であり、物語として共有される歴史が、あらたな現実の物語をつむぎだしてゆく。(pp.12-13)

 『太平記』の構造を、『平家物語』を踏まえた源平交代劇だとまずとらえる。北条氏が平家で、新田氏と足利氏が源氏だ。「昔より今に至るまで、源平両家朝家に召しつかはれて、王化にしたがはず、をのずから朝権をかろむずる者には、互ひにいましめを加えしかば、代のみだれもなかりしに」(『平家物語』)という、源平両氏が天皇家を補佐するという図式は、しかし『太平記』では、後醍醐天皇が、楠氏や名和氏や児島氏のような、源氏でも平家でもない「悪党」と直接むすんで親政を企てたために、すっきりと成立しなくなる。逆にいうと、楠正成は、「さして名ある武士にては候はぬ」「あやしき民」が、「天皇⇔将軍⇔藩主⇔家臣」として序列化された朱子学的な「名分」の世界を一気に転覆して天皇親政をあおぐという、日本的な革命のシンボルとなるのだ。著者は、赤穂浪士・由比正雪・吉田松陰を例にあげているが、二・二六事件などもそうだな。ひょっとしたら、今現在もこのメタファーは生きているかもしれない。
 「物語として共有される歴史が、あらたな現実の物語をつむぎだしてゆく」という視点は、心理学よりも前に文学研究の世界で発展したのだから、きっとあちらではそうめずらしくないんだろう。心理学では、最近ようやくトピックになりつつある。まだ取り扱いに困っている部分があって、一部には過激で無政府主義的な反精神医学運動になってしまって、あまり感心できない袋小路におちこんでいる人たちもいるが、一方で将来性のありそうな研究もたくさんある。すくなくともここ十年は、これで楽しめるんじゃないかな。



原書を読む
2001年11月12日(月)

 英文の論文を書こうと思って、参考文献を積み上げて読んでいる。もちろん英語の本だ。和訳されているものも、かならず原書を読んでおかないと引用できない。引用できないだけじゃなくて、原書を読むと、かなりひどい誤訳があることに気づいたりする。和訳で読んで、「ここはすばらしい。引用しよう」と思っていたところが誤訳で、思っていたのとまったく違う意味だったりすることがあって、とてもガッカリする。
 このごろは、心理学関係のものはアマゾン・ジャパンで簡単に手に入るので助かる。検索機能を使うと、入手可能な文献はすべて網羅されるので、どんどん買ってしまって、あとで支払いのときに青くなったりする。
 英語で読むことは苦痛ではないが、速度が遅い。日本語は音読よりもはるかに速い速度で黙読できるが、英語は音読の速度以上にはならない。それと、後で重要な個所を探すのが不便だ。同じ形のローマ字ばかりなので、キーワードが簡単にみつからない。日本語の場合は漢字を探しているんだな。中国語は漢字ばかりだから、英語と同じことになって、かえって探しにくいだろうと思う。
 私の英文の論文は、だいたいはアドラー心理学と仏教の比較に関するものなので、仏教の文献の英訳も必要なのだが、これがなかなか手に入らない。新しい論文や本が英訳されていないのはしかたがないとして、経典や論書も、阿含経だの法華経だのといったきわめてポピュラーなものの他は、西洋語への翻訳がないか、あったとしても何十年も前の本だったりして手に入らない。英語でなくても、ドイツ語でもフランス語でもいいのだが、ない。しかたがないので、原典から私が英訳している。さいわい、査読は私の英訳しかなくても通してくれているので助かっている。



兼平(2)
2001年11月13日(火)

 『平家物語』巻第九「木曽最後」の段を読むと、木曽義仲と今井四郎兼平の最後の様子が謡曲よりもやや詳しく描写されている。その中で、次のくだりが面白い。

 今井の四郎・木曽殿、主従二騎になってのたまひけるは、「日ごろはなにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなったるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせたまはず。御馬もよはり候はず。なにによってか一両の御着背長を重うおぼしめし候べき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七八つ候へば、しばらくふせき矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、うってゆく程に、また新手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へいらせ給へ。兼平はこの敵ふせき候はん」と申しければ、木曽殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れくるは、汝と一所で死なんと思ふためなり。ところどころで討たれんよりも、ひとところでこそ討ち死にをもせめ」とて、馬の鼻を並べてかけむとしたまへば、今井四郎馬より飛び降り、主の馬の口にとりついて申しけるは、「弓矢とりは、年ごろ日ごろ、いかなる高名候へども、最後のとき不覚しつれば、ながき疵にて候なり。御身は疲れさせ給ひて候。続く勢は候はず。敵におしへだてられ、言うかひなき人、郎党にくみ落され給ひて討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎党の討ちたてまったる』なんど申さんことこそ口惜う候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申しければ、木曽、「さらば」とて、粟津の松原へぞかけたまふ。

 「日ごろはなんとも思わない鎧が、今日は重くなった」という義仲に、兼平は、「あなたも疲れていないし、馬も弱っていない。鎧が重いはずがないではありませんか。味方の軍勢がいないので、臆病になって、そんなことを思われるのでしょう」と答えている。しばらくすると、兼平は、離れようとしない義仲に、「あなたはお疲れになっています。味方の軍勢もいません。あの松原へ行ってご自害なさい」と言っている。先には「疲れていない」と言い、後には「疲れている」と言う。いずれにしても、木曽を気遣ってのことだ。兼平はいい男だ。
 しかし、2人きりの場面で、しかも義仲も兼平もこのあと討死にしたのだから、この対話は誰も聞いていなかったはずだ。だから、これはまったくの創作だ。しかし、なぜ作者は、兼平をこんなにいい男に書いたのだろうか。『平家物語』や『太平記』は、登場人物の子孫の家をまわって語って聞かせたものなのだそうだ。そのとき、先祖の事跡を美化するように、聴衆から圧力がかかったという。兼平の子孫が要求したのだろうか。しかし、兼平は敵方なのに、子孫が残っていたのだろうか。なんとなく謎めいていて、調べると楽しそうだな。そんな時間はないけれどね。

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