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スレッドNo.81

論語でジャーナル

12,(孔子曰く、誠マコトに富を以てせず、亦(また)祇(ただ)異なれりを以てす)。斉の景公、馬千駟(せんし)あり。死せる日、民(たみ)徳として称(たと)うるなし。伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)首陽(しゅよう)の下(もと)に餓(う)う。民今に到るまでこれを称う。それ斯れ(これ)をこれ謂うか。

 (孔先生が言われた。「『詩経』には、人の評価は、裕福な富にはよらず、ただ富とは異なるものによるとある)。斉の景公は四千頭もの馬を持っていたが、死んだときには、人民は誰も景公の徳を称えなかった。伯夷・叔斉は首陽山のふもとで餓死したが、人民は今に至るまでその徳を称えている。詩経の言葉は、こういうことを言うのだろう」。

※浩→朱子の説に従って、この条の冒頭に、「顔淵篇」第十章に紛れ込んでいた「孔子曰く、誠不以富、亦祇以異」(『詩経・小雅』)を補っています。
 斉の景公(前547~490在位)は、ほぼ孔子の時代まで生きていた、欲張りな君主として有名だった。後世に語り伝えられるような「人間の真の価値」は、経済的な裕福さ(富)ではなく、人民が敬意を抱く「徳」にあるということを示しています。主君への忠誠を最後まで尽くして、敵国からの粟(食糧)を貰わずに首陽山で餓死した伯夷・叔斉の事例を引いて解説しています。「伯夷叔斉」は“四字熟語”としても有名ですが、良い機会です整理しておきましょう。↓
 伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、歴史家の司馬遷が『史記列伝』の最初に取り上げた兄弟です。
 古代中国の孤竹国(こちくこく)の王子で、伯夷が長男、叔斉は三男でした。孤竹国は黄河の北岸に存在した小国で、その国民は農業や牧畜を営み、素朴な生活を送っていたようです。彼らは王子でしたが、国を出奔して周に向かうのですが、そこに安住しないで、山に隠棲して餓死します。
 伯夷はある日、父から孤竹国の王位は弟の叔斉に譲ると伝えられます。伯夷はこれを妬まず逆らわず、父の死後にはその遺言どおり、弟に王位を継がせようとします。しかし叔斉は、長男である伯夷が継ぐべきだと主張します。兄弟の間でいさかいが起きぬようにと、伯夷は自分から国を出てしまいました。叔斉は伯夷が去っても王位を継ぐつもりはなく、やがて兄を追って国を出ます。残った次男が民に請われ、王になりました。
 この時代は殷が中国を支配していましたが、その統治が乱れ、紂王という暴君が王になって、滅びの時が近づいていました。一方で、殷に従っている周は、統治がうまくいっていて、その評判が高まっていました。周を治める西伯昌(せいはくしょう)は徳のある名君として知られていて、国を出た伯夷と叔斉は、周で暮らそうと思って旅をします。しかし2人が到着すると、西伯昌は亡くなっていて、息子の武王が周を統治することになります。武王は暴君が居座る殷を滅ぼし、自らが新たに大陸の支配者となることを考え、父の位牌を掲げて文王の称号を捧げ、軍勢を出発させて殷の紂王を討伐しようとします。伯夷と叔斉は、武王が乗る馬のくつわを押さえ、諫言をしました。「父上が亡くなって埋葬もすんでいないのに、兵を起こすのは忠孝の道に外れています。また、主君の紂王を討つのは仁とは言えません」と。武王の家臣たちは兄弟の無礼に怒り、2人を殺害しようとしますが、武王の軍師・呂尚が「彼らは義人であるぞ、手を出すな」と言ってかばい、連れ去ってその身を守りました。2人は正しいことを、勇気をもって武王に告げましたが、武王はそのまま殷に攻め込み、殷は滅ぼされ、武王は新たな覇者として君臨しました。伯夷と叔斉は、主君に反逆して天下を奪った武王の元で生きることを恥として、首陽山に篭って隠棲するのですが、わらびなどの山菜を取って生活していて、やがて体が衰えて餓死してしまいました。

 死の直前に作った詩です。

 首陽山に登り 山菜を取って暮らしている
 暴力を用いて暴力に取って代わり 武王はその非を知らない
 神農や堯舜(ぎょうしゅん)の世は終わってしまった 私はどこにいけばいいのだ
 もう終わりだ 天命は衰えた

 暴力で天下を簒奪した武王を非難し、伝説的な王である神農や堯・舜の築いた平和な世が去ったことを偲んで、「この世は終わりだ、どこにも居場所がない」と嘆いています。
 こうして伯夷と叔斉は哀れな死を迎えましたが、その思想的に一貫した人生が、後の世に影響を及ぼすことになったのです。
 「この世は終わりだ、どこにも居場所がない」という悲痛な叫びは、昨今、自さつする人が多いことと重なります。まことに人間の究極の欲求は「所属(居場所があること)」だと痛感します。

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