物語の終焉(2) 野田俊作
物語の終焉(2)
2001年11月22日(木)
アドラー心理学を学んだとき、もっとも抵抗があった概念は「共同体感覚」だった。それは今でもそうだ。ただ、抵抗感のニュアンスは変わってきている。共同体感覚というのは、ごく単純化していうなら「人類に貢献すべきだ」という価値観だ。最初は、それが価値観だというだけで毛嫌いしていたが、やがて、臨床心理学は独自の価値観を持っていたほうがいいと思うようになったので、その点では抵抗がなくなった。今こだわっているのは、「何が人類にとって貢献になるのか、そう簡単にはわからないではないか」ということだ。
アドラー(1870-1937)の時代には、科学技術とか、自由とか、平等とか、民主主義とかは、絶対的な善だった。しかし、それが「物語」にすぎないことを、アドラー心理学を学んでいた1980年代に、私は予感していた。今は、それは予感ではなくて、たしかな実感に変わっている。
もっとも問題があるのは科学技術だ。物理学関連では原子力の問題があるし、化学関連ではいわゆる公害問題・環境問題があるし、生物学関連では遺伝子操作などの問題がおこりかけている。自然科学ほどは目だたないが、心理学の領域でも、催眠的な方法での意識操作などが、そろそろ問題になるんじゃないかな。これらの問題は、アドラーの生前には知られていなかった。彼は科学技術の「進歩」についてはきわめて楽天的で、それを絶対的な善であるかのように語る。しかしもし彼が今生きていたら、あんな風には言わないと思う。
「科学は諸刃の剣だ」とか「科学は一歩間違えると危険だ」とか言う人がいるが、一歩間違えなくても本質的に危険だと思うし、刃は両側についているのではなくて、ひと棹の剣が便利さと危険さの両方を同時に持っているのだと、私は思っている。どういうやり方であれ、自然に操作を加えると、予想できない副作用がおこる。自然は複雑な非線形現象であって、線形現象しか記述できない現代科学には手におえないのだ。だから、われわれにできることは、変化をまったくおこさないか、あるいはせめて急激な変化をおこさないことだ。つまり、せめてスピードダウンはしなければいけないと思うし、ひょっとしたらある種の技術(たとえば原子力)は完全に断念しなければならないかもしれない。
自由とか平等とか人権とか民主主義などの文化的な諸価値についても、手放しで絶対的な善だとは思えない。それは、近代ヨーロッパ思想であるにすぎず、たとえばイスラム世界にそういう思想を強要する権利は誰にもない。イスラム世界の文化や制度はムスリムたちが決めればいいのだし、日本の文化や制度は日本人が決めればいいのだ。民主主義が「進んでいる」などというよう考え方、つまり擬似ダーウィニズム、を文化や制度の歴史に持ち込まないほうがいい。民主主義は、たとえば封建主義や絶対王政に較べて「進んで」いるわけではない。それらは、要するにパラダイムなのだ。
もっとも、私個人は、自由や平等や人権や民主主義が嫌いなわけではないし、むしろ熱心な自由主義者・平等主義者・民主主義者だと思っている。しかし、それらの価値は相対的なものだとも思っているのだ。そういう価値観について、みんなで話し合い、みんながそれを受け入れるなら、それを受け入れるのがいいし、みんながそれに反対してそれ以外の価値を受け入れることになれば、それはそれで仕方がない。いずれにせよ、「作りつけ」の善悪はない。
アドラーはニーチェの徒だったので、私と同じように「作りつけの価値はない」と思っていたと思う。すくなくとも文化的諸価値についてはそうだろう。彼の弟子たちは、しかし、もっと楽天的で、科学技術や民主主義を絶対的な価値観だと思い込んだようだ。私はアドラー心理学の教師たちの「クサさ」にうんざりしたものだ。自由主義・平等主義・民主主義の絶対視は、第2次大戦後のアメリカをどれほど独善的にし、残虐な行為を正当化する口実になったかを考えてごらんよ。それらを信じるのはいいけれど、狂信的になって、それ以外の価値観に不寛容になり、その価値観を万人に強要しようとするのは、独裁的で非民主的で、本来の方向性に自己矛盾している。