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スレッドNo.814

物語の終焉(3)    野田俊作

物語の終焉(3)
2001年11月27日(火)

 私が子どものころ、水道の蛇口は真鍮でできていた。今はクロム鍍金のピカピカしたものだ。なんだか軽薄だ。天井灯は白熱電球が外から見えていたが、今は環状の蛍光灯が多く、外から見えないデザインも多い。光がなんとなく嘘臭い。そういう小物だけじゃないな、住宅そのものが変わってきた。木と土と紙でできていた住宅が、合板やアルミでできている。なんとも落ちつきがない。これらの変化は、おそらく1960年ごろを境におきたのではないかと思う。
 すべてが安っぽくなったような気がする。「安っぽく」と言って悪ければ、「かわいく」なっている。ここで「かわいい」というのは褒めことばではない。幼児的とか未成熟とか大人っぽくないという意味だ。真鍮の蛇口も白熱灯も白壁も、すべて大人っぽい印象のものだった。今は、すべてが子どもっぽい。こんな風に感じるのは、年をとったからではない。二十歳代にそういうことを書いたことがあるもの。
 こういう変化を、ちょっと前までは「進歩」とか「進化」とか呼んでいた。なんであれ、新しい素材を使い新しい組み合わせをすることはいいことだったのだ。でも、ほんとうだろうか。これも「物語の終焉」なんだ。変化は存在するけれど、進歩や進化は、ほんとうは存在しないんじゃないか。進化とか進歩とかいうのは価値感情を含んだ言葉だけれど、変化することは無条件によいことではない。むしろ、生活を直接とりまく環境が安定しているほうが、心理学的にはいいことのように思う。むしろ変化しないほうがいいかもしれないのだ。
 「自己」というのは、精神や身体だけではなくて、親しい環境をも含んでいるように思っている。自宅の様子とか地域の風景とかも、広い意味での自己の構成要素だと思う。そういう親しい環境が次々と変わっていくというのは、自己が不安定だということで、きっといいことではないと思う。恒常的な環境の中に暮らすほうが安心して暮らせる。環境が勝手に変わっていくと、たえず不安でいなければならない。人間の中の動物的な部分がおびえてしまうと思う。これはきっとよくないことだ。



物語の終焉(4)
2001年11月28日(水)

 「かわいい」に関して。「かわいい」というのが女性に対する褒め言葉になったのはいつごろからだろうか。私の母などは「かわいい」と言うと怒ると思う。「美しい」とか「しとやかだ」とか言うと喜ぶだろうが。これもやはり1960年ごろを境に変わったのではないか。
 女性がかわいくなるにつれて、彼女らの衣服や生活環境もかわいくなった。電話やティッシュペーパーの箱にレースのカバーをかけたり、花模様の壁紙を張ったり、ひらひらしたカーテンをつったり。彼女らの精神的・身体的自己がかわいくなると、環境としての自己もかわいくなったのだ。
 衣服は彼女ら自身の属性だからいいのだが、住環境は、そこに住む他者、たとえば私、にとっても影響がある。私だけじゃなくて、保育所のような室内では落ちつけない男性が多いのではないかな。さいわい、パートナーさんは「かわいくない」タイプの女性で、私は救われている。
 昨日も書いたが、「かわいい」というのは幼児的であるということであり、大人にならないということだ。女性がかわいくなって、子どもたちをかわいく育てて、そうして日本人全体がかわいくなって、成熟を拒否し、一生子どものままで生きる。今おこっているのは、そういうことではないのかな。実際、若い男の子たちもかわいくなっている。「かわいい」という物語はいま盛りだ。
 このままでは困るんじゃないかな。「大人になるのはいいことだ」という、新しい物語を作らないといけないね。白川静先生が「漢文を読むと大人になる」という意味のことをおっしゃったことについて前に触れたことがあるが(10/01)、なるほど漢文を読まなくなったことも関係があるのかもしれない。その他にも複合的な要因がありそうだ。アメリカ文化という、きわめて幼児的な文化にかぶれたことも、もちろん関係があるだろう。技術革新という名前で、水道の蛇口や天井灯を、深みのない安っぽいものにしてしまったことも関係があるかもしれない。

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