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スレッドNo.817

日々の営みとしてスピリチュアルに…

Q
 今回の講演、話の内容としては共感するところが多いです。例えば、今こそ物語が必要だと。その上で日々の営みとして、子どもにどのように具体的に接することが必要でしょうか?

A
 私は昨日の晩にハンバーグステーキの上にね、納豆と青じそとネギの刻んだのを乗せて、そこへ醤油とお酒と黒砂糖をいっぺん煮立てまして冷めたところへワサビをちょっとたっぷり塗った料理を作りました。で、娘が「リスキーね、これは」と言いました。僕もリスキーねと思いましたが、結構いけたんです。反省点は一点、納豆はねあれは挽き割りに刻んでおくべきです。丸のママだと脱走するんですよ、食べるときに。いつも心を込めてお料理を作りたいと思います。なぜなら僕がお料理作ることにしているから。心を込めて部屋の掃除をしたいと思います。部屋がピカピカにはなかなかならないけれど、散らかっていないようにしたいと思います。いつも折り目正しく暮らしたいと思う。いつも丁寧に毎日の日常生活を生きていきたいと思うんです。そのことが一番大事なことだと一応思っています。ハート、スピリチュアリティというものについて、アドラー派の内部で30年にわたって論争がありました。出だしは、アドラーの一番弟子・ドライカースが「スピリチュアルタスク」というものについて論文を書いたんです。仕事、交友、愛というライフタスクの他に、スピリチュアルなタスク、つまり人間を超えたものに対するタスクがあるんだと。神とか運命とか生き死にとか。それをめぐってずーっと議論がありまして、2000年代になってつい最近、レオ・ゴールドというこれも私の先生の1人なんですが、レオ・ゴールドが「スピリチュアル・タスクは存在しない。存在するのはスピリチュアル・アティテュードだという論文を書きました。どういう意味かというと、外の世界にスピリチュアルな対象があるんじゃなくて、外の世界とわれわれがどういう態度でつきあうか、スピリチュアルな態度というのがあって、それは毎日の1つ1つの暮らしをスピリチュアルにすることもできるし、ノン・スピリチュアルにつまりマテリアル・物質的にすることもできる。朝のご飯ひとつ作るにしても、それをスピリチュアルに朝のご飯を作り食べることもできるし、マテリアルに朝のご飯を作り食べることもできる。だから問題はスピリチュアル・アティテュードだというふうにレオ・ゴールドが書いて、一応今多数説はスピリチュアル・アティチュード派なんです。僕はもちろん急先鋒なんですけど、2000年代に論文を書いているんだけど、これは日本人にとっては常識なんですよ。少なくともかつての日本人にとっては。道元禅師はこのことを「常時綿密」とおっしゃいました。臨済禅師は中国人ですけど、「正念崇徳」と言いました。「ずっと覚醒して瞑想的に生きなさい」。毎日毎日の暮らしそのものが瞑想です。座禅なんていうのは、そのためのトレーニングにすぎなくて、日々の暮らしを離れたところに瞑想なんてありませんて、ずっと日本のお師匠さまたちは言い続けました。だからスピリチュアル・タスクなんかないんだと思います。スピリチュアル・アティテュードだと思うんです、スピリチュアルな態度。だから毎日の暮らしをどうやってハートでもって、一切の人々の幸せのために晩ご飯をいただくかどうか、一切の人々の幸せのためにお部屋の掃除をするかどうかと思う。一切の人々なんていないからせめて家族のために晩ご飯を作るんだとわかっていること。面倒くさいなと思いながら作らないこと。今日の夕食は、この世界が始まってこの世界が終わるまで、ただ一度の今日の夕食なんです。明日の朝の「おはよう」は、この世界が始まってこの世界が終わるまで、ただ一度の「おはよう」なんです。それが繰り返されているけれど、毎日違うんです。昨日の朝のわたくしと今日の朝のあなたとは、一日分違うんです。どこのも同じものなんかないんですよ。そう思ったときに全部がスピリチュアルになるじゃないですか。そう思ったときに僕たちの生きることが覚悟として、腹の座ったものとして、ただの機械的繰り返しじゃなくて、人間的なものとして蘇るじゃないですか。そのことを日々の営みとして生きたいと、目標ですがね、すぐ緩みますからね。「いくぞー」って2,3日は保つんですけどね、まあ緩みます。緩んだらまた持ち直せばいいんです。別に、今日言ったからそうかと永久にできるとはまったく期待しておりませんから、ご安心あれ。(野田俊作)

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