頭でわかっても心身が旧態依然
Q
アドラー心理学を学び始めてまだ日の浅い私。小学校の教員です。学校の中で子どもとつきあっていくのにアドラーの教えが頭ではわかっても心や体が旧態依然のことがよくあります。どうしたら進んでいけるでしょうか?
A
あのねえ、…ご信仰が足りない。僕がアドラー心理学を学んできたときに、私は大人になって医学部出て、医学部ではフロイト心理学を辻悟先生という大変高名な先生からほぼ1年間教わりました。さっぱりわかりませんでした、頭悪くて、難しくすぎて。そのあと、高石昇先生からコミュニケーションの心理学とかをしっかり勉強しました。アドラーに出会ったときはだから、うんとこさ頭でっかちだったんですよ。いっぱい知ってたんですよ。それでアメリカへ行って、シャルマン先生からアドラーを学び始めて、最初ねえ、「これも知っている。これも知っている」って思ったんですよ。あるとき、2,3週間して気がついたんです。「これやると何も学ばないで帰ることになるぞ」って。「これも知っている。これは知らなかった。あ、これは知らなかった」をやらないと何も学ばないで帰るよって。だって今まで知っているものに無理やり当てはめているの。ほんとは微妙に違うのに、それを今まで知っている言葉に頭の中で翻訳しているんですよ。だから、「勇気づけ」っていうと、「ああ、エンカレッジメント=エンフォースメントだな、強化だな」って、「知ってるもん」ってこう思うわけ。「強化」と「勇気づけ」は実は全然違うんだけど、今までに知っている言葉に翻訳しちゃうんです。人間の頭ってそうなっていて、すでにできている「枠組み」でもって新しいものを理解したいんですよ。僕は「これは間違っている。これをやっている限り永久にアドラーはわからないと思った。だから全部捨てるしかしょうがないって。でもね、捨てられないんだよね。既に知っているものは捨てられないんです。じゃあどうしたかっていうと、丸暗記することにしました。アドラーが言った言葉を、ドライカースが言った言葉をすっかりそのまま丸暗記するんです。意味がわかったってわかんなくったっていいから。だから、「大切なことは何を持っているかではなくて、持っているものをどう使うかだ」ってアドラーが言ったら、言ったとおり覚えて暮らすんですよ。そうしたらそのうちその意味が文脈の中でわかるじゃないですか。そこですぐに解釈して理解してしまわないで、ただ覚えて暮らすんです。それはどういうことかというと、例えば、古いお茶がいっぱい入っているコップにあとからお茶を追加できないんで、古いお茶を捨てないといけない。捨てないと入らないんですよ。だから多分この方も、「頭ではわかったが…」というのが問題なんです。「頭でわかった」というのはわかってないんです、きっと。今まで知ってる知識にアドラー心理学を翻訳なさったんですよ。だから、「私はアドラー心理学は、ま・っ・た・く、わかってないと、まず思ってくださし。なんにもわかってないって思って。なんにもわかってないって思って、じゃあ何がわかっているか考えてよ。そしたら、わかっていることが1つぐらいあるんです。例えば、「感情が波立っているときは会話のチャンスでない」とドライカースが言いました。これだけわかっているんです。で、とにかく感情が波立っているときは会話のチャンスでない、これだけを守って暮らすんですよ。これで生活は変わります。「失敗したときこそ勇気づけのチャンスだ」とドライカースが言ったんです。これを知ってるんですよ。今度は「失敗したときこそ勇気づけのチャンス」と思って暮らします。そしたら変わります。こうやって学ぶんです。だからアドラー心理学を先に「一覧表」で学ばないでほしいの。1つ1つの言葉を自分の暮らしの中で種を播いて芽を出して花を咲かせたら、また次の種を撒いて芽を出して花を咲かせると、ほんの2,3年すれば、どっちもこっちもアドラーの花がはびこっているでありましょう。「はびこる」。はびこるのは実感!抜けられんな、これは。(野田俊作)