ごっこ遊び 野田俊作
外人宿
2001年12月17日(月)
東京の事務所の近く、台東区谷中(たいとうくやなか)の「よみせ本通り」に、外人用の旅館がある。オーストラリア人の友人が、外人向けの情報網で見つけて、泊まってみたところ、感じがいいという。空いていれば日本人も泊めてくれるというので、試しに泊まってみることにした。
スタッフは日本人で、日本語の疎通に問題はない。受付の後ろにiBookがおいてあって、インターネットにつながっている。誰でも使えるようだ。部屋のドアがやたら背が高いし、部屋の中も天井が高い気がする。和室で、バス・トイレがついていて、シングル一泊6千円+消費税だ。東京の宿としては抜群に安い。清潔だし、接客も感じがよい。これから、東京の事務所に講師を招いたときなどの宿にしようと思う。「アネックス勝太郎旅館」という。最寄駅は、山手線の日暮里か、地下鉄の千駄木だ。
まぼろしの牡蠣鍋
2001年12月18日(火)
広島の友人から大阪の事務所に牡蠣を送ってくれるというので、みんなで待っていた。ところが、どういう手違いか、いつまで待っても届かない。野菜や豆腐を買って鍋にするつもりでいたので、困ってしまった。ええい、仕方がない、牡蠣なしで食べてしまえ。しかし、野菜と豆腐だけではちょっとさびしい。大急ぎで近所のスーパーマーケットへ行って鶏肉とアンコウを買ってきてもらった。味噌仕立てで鍋にして、日本酒をすこし飲んで、楽しく盛り上がった。牡蠣だともっとよかったのだけれど、残念。
明日は私は東京へ行かなければならない。もし明日届いたりすると、スタッフがみんな食べてしまうだろう。くそっ。鍋だけじゃなくて、グラタンも作るという予定で、ホワイトソースも用意してあるのに。
ごっこ遊び
2001年12月19日(水)
新幹線で3人がけの席の通路側に座って東京へ向かっていた。隣は2席とも空いていた。名古屋から一人の女性が乗ってきて、窓際の席に座った。真中の席はまだ空いている。彼女は、まず真中の席のテーブルを出してエビス缶ビールの大きいほうを置いた。ほう、大きいのを飲むか。次にノートパソコンを取り出して、自分の前のテーブルに置いた。メールでも書くのかなと思っていると、違うんだね。パワーポイントを開いて、なんだかプレゼンの用意をはじめた。なかなか「雄々しい」姿だ。どうも、実業関係ではなく、学会発表の準備のようだ。女性科学者なのかな。
そういえば、斜め前の女性はニューズウィークを丹念に読んでいる。女性がニューズウィークを読んでどうってこともないのだが、でもやはり「雄々しい」姿ではある。こういう女性が増えたことを、私は喜んでいる。だって、話し相手としては、こういう人たちの方が圧倒的に面白いもの。ファッションや芸能にしか興味のない女性がいけないとは言わないけれど、話題がなくて困ってしまう。政治や経済や科学に関心をもってくれていれば、退屈しないで話しあえる。
それはそれとして、昨夜、パートナーさんとウォーキングしながら、子どもを虐待する母親について話をしていた。そういう母親は、どうも、子ども時代に「お母さんごっこ」をしたことがないんじゃないかと思われる人が多いように思う。本人たちに尋ねてみても、「お母さんごっこ」をした記憶を思い出せないことが多い。ただし、これはレトロスペクティブな(大人になってから子ども時代をふりかえった)データだから、あまりあてにならない。記憶は現在の信念を反映して選択されるのでね。つまり、今「母親をするのはいやだ」と思っているので、それに従った線で過去を想い出しているだけかもしれず、そのうち母親であることが好きになれば、子ども時代からずっと好きだったかのように記憶が変わるのかもしれない。
しかし、それはそれとして、子ども時代の「ごっこ遊び」は、人格を形成する上できわめて大切なことだと思っている。ごっこ遊びでもって、将来の行動様式の「種」をたくさん用意しておくんだ。境界は十歳くらいかな。それ以前にした「ごっこ遊び」をもとに、それ以後は生きていくんじゃないか。
先日、ある保育士さんが面白い話をしていた。怪我をした子があると、誰か他の子が付き添いになって職員室まで連れてくる。怪我をした子はただ泣いていて、付き添いの子が「○○ちゃんとぶつかって怪我をしたの。手当をしてください」と頼む。別の時、今度は、この前怪我をして泣いていた子が付き添い役で、別の怪我をした子を連れてくると、この前は泣いていただけの付き添い役がちゃんと説明する。「怪我人」のペルソナも「付き添い」のペルソナも、両方とも練習しておくんだ。3歳児ですでにそうなのだそうだ。この「付き添い役」のペルソナは「母親」のペルソナでもある。こういうのも「お母さんごっこ」のうちだ。
隣でパソコンを触っている彼女は、「女性科学者」のごっこ遊びをして育ったのかもしれない。向こうでニューズウィークを読んでいる彼女は「女性政治家」かも。もちろん、彼女らも「お母さんごっこ」もしたかもしれない。そうして、多様な「ごっこ遊び」を通じて多様なペルソナを用意するのではないか。そうだとしたら、彼女らもいい母親になるだろう。ところが中に、「お母さんごっこ」をちゃんとしなかった子がいて、大人になって出産して困っているのが、子どもを虐待してしまう母なのかもしれない。
こうして考えると、女性が政治や経済や科学に関心を持つことと、母親としてちゃんと機能できることの間には、矛盾が何もないことがわかる。政治や経済や科学が「男性的」な活動だという先入観は、歴史的に構成されたものにすぎず、生物学的な事実ではない。だから、そういう活動に女性がコミットしても、母親であることの邪魔にはならない。ちゃんと「ごっこ遊び」さえしておけばね。