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スレッドNo.844

蕗の根 ほか    野田俊作

蕗の根
2002年01月12日(土)

 広島に来ている。今度はフキの根の煎じたのを持ってきてくれた人がいた。これでウガイをすると咽喉の痛みにいいのだそうだ。猛烈にフキ臭いが、効きそうな気がする。
 これは、漢方薬ではなくて民間薬だ。世間の人は漢方薬と民間薬を区別しないようだが、はっきり違うものだ。漢方薬というのは、中国古代・中世の医学書に記載のある薬で、材料についても、その組み合わせ方についても、古来からきちんと決められている。さらに「証」といって、その薬を使う目安になる症状の特徴がきちんと記載されている。たとえば、「熱が出て肩が凝って汗が出ず浅い位置で脈を触れれば葛根湯を飲め」というようなことが、古代の医学書に書いてある。民間薬は漢方医学書には記載のない生薬で、主として日本で経験的に使われてきたものだ。「証」についての記載もない。
 漢方薬は「証」さえ合えば劇的に効くと思うが、民間薬は「証」がわからないので、飲んでみるまで効くか効かないかわからないし、中には有害なものもあるかもしれない。しかしまあ、フキは食用植物だし、それを煎じたものなら心配はないだろう。ありがたく使っている。しかし、フキ臭いな。一昨日は漢方薬で、昨日はそれプラス、イギリスから帰ってきたばかりのアロマセラピストの友人が風邪に効くハーブ茶を飲ませてくれ、今日はフキの根でうがいだなんて、風邪のバイキンもびっくりだろう。



世代交代
2002年01月13日(日)

 福岡に来ている。当地のアドラー心理学の学習会が世代交代することになった。世話役さんたちが引退して、若い人たちに代わるのだ。「引退して」といっても、学習会には続けて参加するのだが、ただ世話役をするのをやめるのだ。これは、とてもいいことだと思う。世話役さん自身にとっては、あまりにも長期にわたって人の世話ばかりしているのではウンザリするだろうし、会員にとっては世話役をしてアドラー心理学運動に貢献するチャンスが与えられることになるし、会にとっては新しい動きをするきっかけになる。八方いいことずくめだ。
 福岡以外の他の地域でも、すでに世代交代に成功したところもある。しかし、失敗して、あげくのはて、グループが解散してしまったようなところも、一方にはある。グループが解散まではしなかったものの、シコリを残した地域もあるという。今現在、世代交代をめぐって内部葛藤のあるところもあるようだ。総論としては、世代交代はいいことずくめなのだが、各論としては、さまざまの人間関係トラブルを起こしているようだ。大きなことは言えないので、日本アドラー心理学会も世代交代に失敗して手痛い目にあったことがある。学会の場合は、雨降って地固まるで、結果的にはよかったのだが、結果的によくするために、ものすごいエネルギーが必要だった。地域の学習会では、アドラー心理学会の世代交代失敗ほどの大事件は起こらないだろうが、それでもしこりを残すと、地域が狭いだけに、あとが大変だろう。
 世代交代はルール化しておいたほうがいいかもしれない。世話役さんが50歳か55歳かになれば定年ということにしておくのはどうだろうか。以前(2001/12/05)に、石垣島と宮古島の婦人会の噂を書いたことがあったけれど、年長者がいつまでも会の中心にいると保守的になっていけない。
 あるいは、定年制がだめなら、任期を5年くらいに決めておいて、一定期間世話人をしたら交代することにしておけばいい。再任はできないことにすればいいと思う。混乱が起こりそうなら、複数の世話人が半数ずつ交代すればいいんだ。
 地域の学習会の運営は完全に地域の自治になっていて、その学習会の外部にいる人間は干渉できない。だから、世代交代のルール化は、私の個人的な提案として言っているだけで、各学習会がそれについて話し合い、自分たちの状況にいちばん適した方法を決めればよいのだが、ただ言いたいのは、学習会が永続的に活動するためには、世代交代はどうしても必要だと思うし、それは結構やっかいな仕事なので、普段から考えておいたほうがいいのではないかということだ。



ハリー・ポッター
2002年01月14日(月)

 風邪もまあまあよくなったし、私もパートナーさんもお休みだったし、急に思い立って『ハリー・ポッターと賢者の石』を見に行った。子どもたちはかわいかったし、魔法使いたちもすてきだったし、画面もきれいだったし、特撮も面白かったが、筋立てがよくなかった。
 たとえば『ゲド戦記』の主人公ゲドは、魔法を使うことをめぐってさまざまな内面的な葛藤を経験する。魔法を習得するのも大変だし、使うと副作用があるし、平凡な生活への未練もあるし、精神的にもさまざまの困難を乗り越えないといけないし、常にアンビバレンツなのだ。あるいは、もうすぐ映画でやってくる『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』の主人公のフロド・バギンズも、使ってはいけない魔法の指輪を使うかどうかで、常に葛藤を持ち、自分と戦い続ける。さらに、その指輪を捨てるために危険な旅に出るというきわめてパラドクシカルな物語の中に、自分の意思を越えた力によって放り込まれる。文学の中で、魔法というのはそういうものなのだと、ついこの間まで位置づけられていた。それはもちろん、科学技術という「魔法」に対する、良心的な文学者の共通した構えだったのだ。
 ところが、ハリー・ポッターは「先天的」に天才的魔法使いで、彼の努力とはなんの関係もなく自動的に魔法の学校に入学許可されるし、入学するとエリートの子孫たちが集まっていて、その中で「血筋」のおかげではじめから有名人だし、教師たちからも完全に「ひいき」されていて何をしても許されるし、まあとにかく都合のいい話なのだ。シンデレラだって王子様と結婚するためにもうすこし苦労するぜ。主人公には、内面的にはなんの葛藤もなくて、アメリカのスクールドラマにありふれた友だちとの対人葛藤しか描かれていない。魔法の代わりに、ノーベル賞学者の息子の話だとでも思って見ると、きわめて差別的な発想で貫かれていることがわかる。
 アメリカでは、こういう物語が望まれているんだなあ。「アメリカ人の子どもとして生まれたこと」に対する盲目的なプライドを持ちたいんだろうか。このご時世でそうだとすると、危険だな。むしろ、今、魔法(科学技術)を使うことの難しさや、そういうものを使わないでもっと人間本来の力だけで生きる可能性を探ることや、魔法を使うことによる人間精神の変質や、そういうことに、子どもたちの注意を向けるべきではないのかなあ。

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