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スレッドNo.848

臨床家と教育者    野田俊作

玉葉風雅の和歌
2002年01月19日(土)

 内輪で連絡用に使っているホームページに「うらない」をするCGIをつけている。乱数で番号を決めて吉凶のメッセージをひとつ選んで掲示するという、きわめて単純なプログラムだ。もうすぐ春なので、デザインを変えようと思って、春の短歌を集めていた。吉凶の後に短歌を掲示すると優雅だからね。もっとも、吉凶と短歌の意味のつながりは、私にもよくわからないのだけれど、遊びなので、まあ適当につけている。
 古今の名歌の中から好きなのをメモしているが、現在15首決まっていて、そのうちなんと5首が南北朝時代の『玉葉集』あるいは『風雅集』所載の、いわゆる京極派の歌だ。これでは偏愛としか言いようがない。自分でも驚いている。当然『万葉集』が多いだろうと思っていたら、そんなことはなくて、2首しかない。「一人の歌人は一つ」という制限をかけているのだが、それがなければ、京極派の歌はもっと増えるだろう。

みねのかすみふもとの草のうすみどり野山をかけて春めきにけり 永福門院

山の端も消えて幾重の夕霞かすめるはては雨になりぬる 伏見院

沈みはつる入日のきはにあらわれぬ霞める山のなほ奥の峰 京極為兼

越ゆれども同じ山のみ重なりて過ぎゆく旅の道ぞはるけき 花園院

のどかなる霞の空の夕づく日かたぶく末に薄き山の端 藤原為子

 平安時代から鎌倉時代の和歌は、「見ざることをも見、聞かざることをも聞き、思わざることをも思い、なきことをもあるように詠む」(『野守鏡』)というように、旅をしていなくても旅の歌を詠み、恋をしていなくても恋の歌を詠めるのが、歌の上手だとされていた。ところが、鎌倉時代末期の伏見天皇のサロンに京極為兼という歌人がいて、そういう伝統に反発して、「心のままにことばのにおいゆく」(『為兼卿和歌抄』)詠み方、つまり実景と実感を重視する作法を主張した。伏見天皇やその皇后の永福門院、後継者の後伏見天皇、花園天皇など、いわゆる持明院統の宮廷でこの作法が伝えられたが、これを、伝統的な和歌作法に固執していた二条派と区別して、京極派という。そのグループから『玉葉集』と『風雅集』という二つの勅撰和歌集が発行された。その後、この門流は衰えて、彼らの歌は長く忘れられていた。
 折口信夫やその門下生が京極派の和歌を評価していたので、むかしから知っていたし、嫌いではなかったのだが、いつのまにこんなに好きになっていたんだろう。心境の変化なのだが、年をとったためなのだろうか、それとも今の時代の雰囲気なのだろうか。焦点がフワフワと移り変わるような彼らの詠みぶりが、同じ写実でも、万葉集の直線性と違って、一つの風景にさまざまの心情が重ね焼きにされているようで、かぎりなく美しいと感じてしまうのだ。



臨床家と教育者
2002年01月20日(日)

 昨日から大阪府河内長野市で催眠とポストモダン心理学のワークショップをしている。人格がひとつではなくて複数あること、それらが単一の無意識の上に乗っていること、状況によって違う人格があらわれること、ただし、意識だの無意識だの、あの人格だのこの人格だのというのは、言葉によって恣意的に現象を区分したものであるにすぎず、実在ではないこと、だからその区分は変更できること、などを話している。
 臨床家たちは大変なショックを受けているようだ。20世紀の心理学が探求していた、人格の診断だとか、人格の変容だとかは、いったいなんだったのか。ある心理臨床家が、「性格を分析して、それを洞察してもらい、問題点を矯正するという考え方とは、どう折り合いをつけるんですか?」というようなことを質問したので、「そう言えば、そういう考え方もありましたねえ。ともあれ、21世紀へようこそ」などととぼけて答えたりしていた。人格理論が根底的にひっくり返っているので、折り合いなんかつきようがない。
 食事をしながら、ある精神科の看護師さんと話をしていたのだが、患者さんの態度は、看護師さんの出方でまったく違ってくる。看護者がやさしく接すると患者さんはおだやかになるし、看護者が厳しいと患者さんは荒れる。厳しく接する人たちは、患者さんの人格がひとつしかないと思っているので、問題行動があれば、それを分析し、洞察させ、反省させ、別の行動を選択させるべきだと考える。そういう看護師さんに対して、患者さんはいい顔をしない。そのうえ、そういうやり方で患者さんがちゃんと学ぶかというと、そうでもないようだ。ジェーン・ネルセンというアドラー派の学者が言っているのだが、「子どもに学んでもらうために、苦しい目にあわせる必要はない」のだ。しかし、モダニズム的な単一人格理論に乗っかって考えるかぎり、患者さんの問題点を指摘せざるをえないことになる。そうなると、治療的人間関係がまずくなって、患者さんはかえって学ばなくなる。
 ポストモダニズム的な多重人格理論では、問題を分析し除去することを断念して、かわりに、患者さんの中に解決に向かうリソースとしての別の人格がないかどうか探す。そして、それを使うように勇気づける。この方法だと、患者さんを責める必要がまったくないので、厳しく接する必要がなく、治療関係が悪くならない。看護者がやさしく接したときに出てきているおだやかな患者さんの人格と、厳しく接したときに出てきている荒れている人格とは、別の人格だと考えられるし、それら双方とは別に問題解決につながるリソースがあるのかもしれないし、すくなくとも荒れている人格はリソースではない。そう考えると、「よい治療関係」と「問題解決」という、かつてはある局面では矛盾する概念だったものが、いまやなんの問題もなく並立できるようになった。これは実に貴重なことだ。
 看護師さんたちは、臨床家と教育者のちょうど中間あたりの意識をもっているように思う。心理臨床家たちは世界の根底が揺らぐほどのショックを受け、看護師さんもそれなりに驚いていたのだが、学校の教師はそれほどびっくりしていなかったように見えた。臨床よりも教育への影響がより大きいと思うんだがなあ。パートナーさんにそんな話をしたら、教師と一緒に仕事をすることが多い彼女は、「先生ってそんな風よ。具体的なノウハウには興味があるけれど、理論的な話を聞いても、それを自分の現場の問題と結びつけて考えないの」と言う。ふうん、そうなのか。まあ、そんな教師ばかりではないとは思うのだが、たしかに臨床家ほど理屈と実践とを直結させることはないようだ。そういうことが、教育が新しい時代に即応できなくなっていることと、あるいは関係があるのかもしれない。

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