着信メロディ 野田俊作
着信メロディ
2002年01月23日(水)
昨日「朝早く眼が醒めて困るということはない」と書いたばかりなのに、朝早く目が醒めてしまった。仕方がないので起き出して、書き物をしていた。ものを書く仕事は、よほど急ぐものでないかぎり、午前中だけにして、午後からは別のことをする。今日も、早くも午前11時ごろには煮詰まってしまったので、まじめな仕事はやめにして、携帯電話の着信メロディを作ったりしていた。
スーパーマーケットの魚売り場でかかっている歌がある。関西ではどこのスーパーマーケットでもかかっている。中央卸売市場だかなんだか、魚屋さんの元締めみたいな組織が作った歌なんだそうだ。「さかな、さかな、さかなぁ、さかなぁを食べるとぉ」という、きわめて特徴のあるサビがついているので、覚えている人が多いんじゃないか。先日その歌を入れた。ところが、買い物にいって実際に聞いてみると、ある部分の伴奏の特徴を聞き逃していることに気がついた。それがずっと気になっていたので、伴奏を作りなおした。
私の携帯電話は内蔵電話帳をグループ別に整理できる。「野田一族」だとか「アドラー一味」だとかいうグループがある。しかも、グループごとに着信メロディを変えることができる。こういうのって、きっとどこのメーカーの携帯電話にもついているありふれた機能なんだろうな。でも、周囲に使っている人をみたことがない。みんなオジンとオバンばかりなんだ。「さかなの歌」は、電話帳に載っていない、しかも番号不通知の電話に使っている。それまでは「インターナショナル」を使っていた。ところが、道端で鳴ったとき、となりにお巡りさんが立っていた。ムッとこっちを見られて、ちょっといやな感じだったので、じゃあ「さかなの歌」だったらどうだい、と思ったのだ。いまどき、「インターナショナル」で反応するお巡りさんがいそうにはあまり思えないので、私の思い過ごしだと思う。だって、若い人に「インターナショナル」を聞かせても、誰も知らないもんね。
通信販売
2002年01月24日(木)
私のオフィス(アドラーギルド)のホームページでは、昨年秋から試験的に一部商品の通信販売をしていたが、具合がよさそうなので、全商品を通信販売することにしてCGIを作っていた。作っていたといっても、CGIレスキューというところのシェアウェアをほんのちょっと改造しただけなのだが、しかしなかなか厄介だったよ。CGIレスキューさんのCGIは、とてもよくできている。しかし、通信販売のような仕事は、自分のところの仕様にあわせてカスタマイズしないといけないので、出来合いのCGIをそのまま使えないのだ。テキストで書かれた初期設定ファイルを書き直すだけですめば簡単なのだが、Perl言語で書かれたプログラム本体を何箇所か触る必要があった。人の書いたプログラムを読むのは、きわめて読みやすいPascal言語で書かれていてもいやなのに、Perl言語みたいな極端に読みにくい言語で書かれたプログラムを読み解くのは、とてもイライラする仕事だった。かなり苦労したが、どうやら動くようになった。クリックするだけで簡単に買い物ができるから、みんな衝動買いをしてくれないかな。そのためには、商品をもう少し充実しないといけないな。年度末に在庫をかかえるのはいやだから、4月になったら考えよう。
トーキングボード
2002年01月25日(金)
エリクソン風の催眠治療をするとき、治療者は患者さんの意識と無意識の両方と対話する。意識については口で喋ってもらえばそれでいいのだが、問題は無意識とどうやって対話するかだ。普通は「イエスだと右手、ノーだと左手が自然にもちあがります」というように『観念運動』というものを使って対話するのだが、これだとイエスとノーしかない。もっと複雑な答えを求めたいとき、不自由なのだ。
そこで考えたのが、『トーキングボード』というものだ。『ウイジャ盤』ともいうのだが、これはフランス語のouiとドイツ語のjaをつないだ単語だそうで、かなり怪しい名前だ。実際、19世紀くらいから、かなり怪しい目的(交霊術とかね)に使われてきたようだ。日本では『こっくりさん』に同じようなものを使う。『ウィジャ盤』も『こっくりさん』も怪しすぎるので、『トーキングボード』という名前で呼ぶことにした。これは、私が作った言葉ではなく、ちゃんとした英語だよ。
なぜこんなものを知っているのかというと、父の本棚に催眠療法の本があって、そこに載っていたのを覚えていたのだ。読んだのは中学生の頃じゃないかな。自分が催眠療法をするようになって、それを思い出したのだ。ほぼ40年前の記憶だ。なにが役に立つかわからないね。
交霊術に使うのと同じ道具ではあるが、使う目的が違う。人生の方針について、意識で考えてなかなか決められないとき、無意識がどう考えているかを尋ねるために使うのだ。たとえば、転職しようかどうしようか迷っている。考えても考えてもなかなか決められない。じゃあ、無意識はどう考えているのだろうか。そこで、トーキングボードを使う。板の上に「あいうえお」だの数字だの「はい」だの「いいえ」だのが書いてある。その上に、三角形ないしハート型で三本の足がついている板を乗せ、その板の上に手を置いて、観念運動を待つ。そのうち、三角形の板が動き出して、先端が文字を指さす。使い方自体は『こっくりさん』と同じだ。しかし、「うらない」をしているわけではないし、キツネだかなんだかの霊を降ろしているわけでもない。ただ、自分自身の無意識が考えていることを知ろうとしているのだ。
そういう話を東京のオフィスのスタッフにしていたら、実際に作ってくれた。作ってくれた彼女は、特に工芸に堪能なわけではないそうだが、話を聞いているうちに作りたくなって、あれこれ試行錯誤しながら作ったのだそうだ。はじめて工作をした人が作ったとは信じられないほど出来がいい。仏様がついているのは、彼女が敬虔な仏教徒なので、そのためだ。今日、実際に使ってみた。とてもいい感じだ。数人の人生を変えてしまったかもしれない。
20世紀は、こういうものを極力排除する思想、すなわち理性絶対のモダニズムが優勢だった。その結果は、あまりよくなかったと私は思っている。自然のバランスも崩したし、人間の心も荒廃させた。意識や理性も大事だけれど、無意識的なこと、動物的なこと、直感的なこと、そういうことも人間の精神にはあるのだから、大切に扱うべきだと思う。21世紀がそういうものに正当な評価を与える時代になるといいと思っている。しかし、邪教的神秘主義と紙一重なので、注意深く取り扱わないといけない。それがなかなか難しそうだ。