パソコンの稀な使用法 野田俊作
パソコンの稀な使用法
2002年02月08日(金)
ちょっと恥ずかしい話なのかもしれない。
自分でMDに録音した音楽や講演をパソコンに取り込んで、それをCD-Rに焼けないかなと思った。WAVファイルからCD-Rに焼くところはわかるのだが、MDをマイク端子から取り込んでWAVファイルにするところがわからない。本がないかと書店で探したが、単行本は見つからなかった。ようやく雑誌の特集号を2種類ほど見つけたが、それらは要するにDirectCDだとかWinCDRだとかいった高価なソフトの宣伝みたいなものだ。それらを買うと10000円以上もするし、仕様もちょっと重厚長大すぎる気がする。そこで、インターネットに何かないかなと探し回って、ようやく500円のシェアウエアを見つけた。これでどうやら自力でMDからCD-Rに変換できることになった。ここまで一週間ほどかかったし、費用も2000円以上かかっている。かなりのエネルギー消費だ。
言いたいのは、世間で普通にはしないことをパソコンにさせようとすると、情報集めが難しいということだ。ワードやエクセルのことなら腐るほど本が出ている。既成のCDやMPEGファイルをCD-Rに焼くのだってかなりの本が出ている。しかし、自分が録音した音楽や講演をCD-Rに焼こうと思う人はあまりいないみたいで、情報が見つけ出しにくい。そりゃそうかもしれないね、MDのままで聞いていてもいいもの。でも、状況によってはCD-Rにしておいたほうが便利なこともあるのだ。
もうひとつ、まだ見つけていない情報がある。パラオで三保先生の水中ビデオ画像のいくらかを、私が持っていったパソコンにいただいた。マンタやブルー・マーリンやマダラトビエイがとても美しく撮れている。これをスチール画像にしたいのだが、やり方がわからない。ビデオカメラにテープで入っている画像をスチールにする方法は知っている。AVIファイルをデジタルビデオのテープに落とす方法も知っているので、いったんテープに落として、そこからスチール画像を作ることはできるのだが、ちょっと馬鹿げている。AVIファイルから直接静止画を取りたいのだが、やりかたがわからない。探していればそのうちわかるのだろうが、面倒なことだ。
パソコンのように、極度に汎用的な道具を人類は持ったことがない。それに無数の人々がとりついて、さまざまの新機能を発揮するように周辺機器やソフトの開発をする。その全体像は、もう誰にも見えない。しかも次々と新しい使用法が発見されていく。出版はその速度と範囲についていけない。それで、パソコンをちょっと変わった使い方をしようとすると、情報集めが難しいことになる。インターネットに頼るしかないのだが、まだじゅうぶん便利ではない。過渡期だからしかたがないのかな。
洋服を買う
2002年02月09日(土)
東京にいた。講演をしたあと、質問を受けつけたら、私の服を買うとき、パートナーさんと一緒に買いに行くのかどうか、と尋ねた人があった。なぜそういうことに関心をもたれたのかわからないが、いちおうお答えしておいた。
ネクタイ以外のすべての服は自分ひとりで買いに行く。下着もシャツも上着もだ。ただフォーマルスーツだけは、パートナーさんと一緒に買いに行くこともある。なぜなのだかわからない。パートナーさんが服を買うのについて行くこともない。ただ、私がプレゼントするときだけは一緒に行く。ネクタイは、プレゼントしてくださる方が多いのだ。皆さん私の好みをよくご存知で、いつも気に入るのをいただく。だから買う暇がない。
このパターンは、今のパートナーさんと一緒に暮らすようになってからだ。以前に結婚していたときは、大部分を奥さんが買っていた。別居して一人になったとき、当然のことながら一人で買いに行くようになって、それ以来その習慣が続いている。自分の身の回りのことは、できるだけ自分で世話したい。女に頼らないと生きていけない男ではいたくない。つっぱっているわけではなく、自然にそう思っている。
パソコンの稀な使用法(2)
2002年02月10日(日)
一昨日、AVIファイルからスチール画像を取り込むソフトがないという話を書いたら、早速ある未知の方からメールをいただいて、当該ソフトのインターネット上の所在を教えていただいた。感謝にたえない。今回のエネルギー投資は日記を書いただけだ(^_^)。
それはそれとして、パソコンをクリエイティブに使おうとすると、たちまち困ってしまう。クリエイティブといっても、新発明じゃなくて、すでにこの世界のどこかで誰かが使っているような使い方であるに違いないのだが、そのためのハードなりソフトなりに到達する道のりが遠い。みんなはそんな風に感じないのだろうか。あまり特殊な使い方をしようとしないのかな。
きっかけ
2002年02月11日(月)
日本アドラー心理学会近畿地方会があって、その懇親会でのこと。しばらく前に、ある女性に、宮城谷昌光『海辺の小さな町』(朝日文庫)という小説を貸した。彼女が借りたいと言ったわけではなく、私が「読みませんか」と押しつけたのだ。宮城谷昌光は古代中国を舞台にした小説をたくさん書いているが、この本はそういうテーマではなくて、半ば自伝的な、大学の写真部の青年たちの物語だ。彼女もむかし写真部だったのだが、長らく写真をやめていたのを、最近復活した。それで、面白がるかなと思い、貸したのだ。
さて、懇親会で、「あの本は読みましたが、貸してくださったのはどういう目的ですか?」と彼女は聞く。「えっ?」と私。「さぼっていないで、もっとたくさん写真を撮れという意味かな、とか」と彼女。「いや、そんなのじゃなくて、きっかけを作りたかっただけ」と私。「えっ?」と彼女。
「きっかけを作る」というのは、たとえば高校生のころ、好きな女の子がいると、本を貸したりして仲良くなるきっかけを作るという意味だ。ところが、彼女には、この考え方が通じない。女子中・女子高・女子大卒で、男の子と一緒に青春時代をすごしたことがないのだ。「そう言えば、うちの娘に、男の子たちがCDを貸してくれますね」と彼女は言う。「CDを貸す」という「記号」の意味は、彼女には読み取れていない。娘さんはちゃんと読み取っているのだろうか。CDを貸した彼に共感して、ちょっと心配になってしまった。共学にいるのなら、娘さんはちゃんと読み取れているだろう。
アドラー心理学を学んでいる人の写真好きが「F100クラブ」というのを作っている。F100というのは、ニコンF100のことだ。F5でもF80でも入会できるけれど、F100を持っている人が圧倒的に多いので、F100クラブという。会費もないし例会もないし、ニコンの他にコンタックスやライカを持っていても、裁判にかけられることもない(ニコン信者の会というホームページに、ニコン以外のカメラに色目を使った人の裁判がある)。みんなでニコンを共有していると、レンズの貸し借りができるので便利だ。それも「きっかけ」になるしね。撮影会でもすればもっと「きっかけ」になるな、そう言えば。