誕生順位と性格傾向 野田俊作
誕生順位と性格傾向
2002年02月15日(金)
金曜日は事例検討会があって、その後、近所の大衆中華料理屋で遅い夕食にする。私は、白乾(ぱいかる)という中国の焼酎に酔っ払って、次のようなことを口走っていた。。
私:どうも日本アドラー心理学会の役員は第一番目の子どもが多すぎますよ。アドラーの教えによれば、性格は、きょうだいのなかでの誕生順位に大きく影響されて、第一子・中間子・末子・単独子におおまかに分類できるというじゃないですか。このうち第一子は、独立心は旺盛でありリーダーシップもあるが、対人関係への配慮が乏しく独走することが多いのだというでしょう。実際、役員さんたちを見ていると、そういう傾向なきにしもあらずだと思いませんか。どうでしょうかね、この弊害を防止するため、一般人口の中での第一子・中間子・末子・単独子の比率を調べ、それに応じて役員の定員を決めるのがいいんじゃないですか。たとえば第一子5人、中間子3人、末子5人、単独子2人、というように、比例代表性(?)にするんです。すばらしいアイデアだと思うのですが。
Aさん(以下Aなどと敬称を略す):そんな暇なことをよく考えますね。そんなことを考えている時間があったら、本を書いてくださいよ。
私:それじゃ、誕生順位と血液型を組み合わせた本を出そう。4×4で16通りになるでしょう。それでもって男女の相性を判断する本を書くと売れますよ。700円として、1万部売れると印税70万円か、悪くないな。お金のないおりだし、本気で考えてみようかしら。
B:あのね、お願いだから偽名で書いてくださいね。本名で書かれると、アドラー心理学の評判が悪くなるから。
私:そもそもオリジナルのアドラーの誕生順位だっていいかげんなアイデアだと思うんだよ。だから、同じようなものじゃないか。まだ血液型性格判断のほうが信じられるかもしれない。
A:そう思うのなら、なぜ比例代表制なんか持ち出すんですか。
私:......。
西洋占星術についてのデータだったと思うが、生まれ月の星座と性格の関係は、占星術を信じている人については相関があり、信じていない人については相関がないのだそうだ。血液型性格判断も同じようなものだろう。アドラー心理学の誕生順位による性格判断も、あるいはそうなのかもしれない。アドラー心理学を学んだ人については当てはまるけれど、そうでない人については当てはまらない恐れがないではない。
いずれにしても、私は誕生順位と性格傾向についての古典的なアドラー心理学理論を信じていない。けれど、酒席の話題にするにはとても適している。まあ、その程度の使い道しかないということだ。
恋の歌
2002年02月16日(土)
土・日は仕事で出張していることが多いのだが、今日はめずらしく休みで、ぶらぶらしていた。といっても、けっこう仕事はしたんだよ。まず、朝から車を洗った。冬は車を洗うチャンスを見つけるのが難しい。さいわい今日は小春日和だったので、外側も洗ったが、内部をきれいに掃除した。もうすぐ車検なのだが、オキアミの臭いがするのだ。内部を掃除すると消えるかなと期待しているのだが、どうだろうか。見栄を張っている。釣り人の車だから、悪臭がするのは仕方がないんだがね。
昼過ぎには日本橋(にっぽんばし)の電気街へ出かけてあれこれ買い物をした。パソコンを徹底的にオーディオ・ビデオ対応に改造すべく、作業中なのだ。特に、パートナーさんが撮った水中ビデオの編集に使えるようにしたい。アフレコで音楽を入れたり解説を入れたりできるといいなと思っている。かつて一度、パソコンを使わないでそういう作業をしたことがあるのだが、とても大変で、1回で懲りて、その後は撮ったまま放ったらかしなのだ。生のビデオは冗長で見る気がしない。編集しておいておくと、ときどき思い出して見る気になるかもしれない。パソコンの中に入っていると、見るのも手軽だしね。
午後4時ごろから夕食の準備にかかった。パートナーさんは土曜は仕事で日・月が休日なのだ。レンコンの残りでレンコンご飯を作り、ブロッコリーと春菊とキュウリとトマトのサラダと、タケノコと豆腐とネギの入った味噌汁と、後はサンマだな。今日はパートナーさんの娘がボーイフレンドとスノーボードに行ってしまったので、2人で夕食だ。娘は「いちゃいちゃご飯」というが、それはちょっと恥ずかしすぎる呼び名だ。
6時ごろ、すっかり暇になってしまったので、ブレンデル弾くところのシューベルトのアンプロンプチュ(即興曲)を聴き、次に(ペーター・)シュライヤーのシューベルト歌曲集を聴いている。胸苦しく、恋愛の真っ最中の感じだ。こういう感じは、シューベルトやシューマンの時代の音楽にしかない。バロックもだめだし現代音楽もだめだ。フォークやロックも演歌もだめで、ただ初期ロマン派の音楽だけが、思春期の恋の胸苦しさを歌いあてることができている。そう思うのは、私がクラシックファンだからで、たとえばロックファンは、ロックを聴くと胸苦しくなるのだろうか。それとも、クラシックファンの恋愛とロックファンの恋愛とは、現象が違っているのだろうか。ともあれ、腐れはてるほどロマンチックな音楽を聴きながら、『指輪物語』を読んでいる。フロド・バギンズはエルフの都リヴェンデルへ着き、今は長々と会議の最中だ。
腰痛
2002年02月17日(日)
今日は私もパートナーさんも休日だった。彼女は職場の仕事を持って帰ってオッサンをしている。となると、私はオバハンをせねばならず、ひとりで車に乗ってマーケットへ夕食の材料を買いに出かけた。買い物を済ませて帰宅し車から降りたとたんに、腰痛が起こった。買い物袋を車から出して地面に置き、車のドアを閉めて、買い物袋をとろうとかがんだとき、腰周りに痛みが走ったのだ。脚のほうに症状がないから椎間板ヘルニアではなくて、単なるギックリ腰だろうな。しかも、最悪の状態ではない。その寸前に気がついて、ちょっと手加減(腰加減)したので、最後まで行っていない感じだ。歩けないほどではないが、地面にある荷物がとれない。仕方がないので、家に入って、パートナーさんを呼んで、荷物を運んでもらった。
この正月にも同じ種類の腰痛があった。ダイビングに行けるかどうか心配していたが、その前に日常生活に問題がないところまで軽快していた。20キロほどのダイビング器材を背中に背負っても大丈夫だった。再来週、登山を計画しているのだが、それまでには治るだろう。20キロあまりの荷物を運ぶが、大丈夫だと思う。
腰痛であれ風邪ひきであれ、病気というのは不思議なもので、ダイビングの最中だとか登山の最中だとかには起こらない。いちばん病気になってもいいときになる。身体の中のどこか局所に異常があって、そのため全身のバランスが次第に崩れてきて、やがてカタストロフが起こらざるをえない状態になる。カタストロフを逃れるわけにはいかないのだが、いつ起こすかは、神経系なり内分泌系なり免疫系なりがバッファ作用をして、すこしは前後に動かせるのかもしれない。だから、人はいちばん病気になるべきときになる。死ぬのだってそうで、家族でこれまでに死んだ人のことを考えると、もっとも死ぬべき日に死んでいるような気がする。自然死の話で、事故死は別だけれどね。
こんなことを言っているが、登山の最中に腰痛が再発するかもしれない。もしそうなったら、ベソをかきながら帰宅して、「起こっちゃいけないときにも起こるようだ」などと、シラッとした顔でここに書こう。
腰痛(2)
2002年02月18日(月)
腰痛は相変わらずだ。気を紛らわせるために多動症が悪化して、ちっとも安静にしていない。スタッフに「いつもよりハイですね」と言われてしまった。痛みがある上に、さらに気分的にブルーになったら、どうしようもなくなるじゃないか。せめて盛り上がらなくっちゃ。
腕をある角度に挙げると腰が痛いとか、脚をある方向に伸ばすと響くとか、腰の曲げ方や伸ばし方で微妙に痛む部位や痛み方が違うとかいうことを楽しんでいる。さまざまの反射でもって無意識的に防御姿勢を保っているのがわかる。実に精密にできている。人間というのは、アドラーが言うように、統合された全体で、ある局所に問題があると全身に変化が起こり、全身の変化が局所に影響する。病気になったときはじめて、健康な状態というものが、実は奇跡のように精密な制御によって成り立っているのだということがわかる。システムの一箇所が崩れると、制御全体をやりなおさなければならなくなる。治癒していくときにも、また制御システムが再構築されるのだろうな。
「腰が痛いよう」と言いながら、自宅のパソコンをDVD化した。廃品のDVDドライブを手に入れたのだ。タワー型のパソコンは便利だ。いくらでも臓器移植ができる。人間もこういう風だといいのにね。腰の骨だけとりかえたりね。難なくDVD化に成功して、映画を見ているが、うまく動くものだ。しかし、ディスプレイが小さいな。どこかに廃品の大きなディスプレイはないかな。
『指輪物語』は、オフィスとの往復の電車の中で読み続けている。リヴェンデル(Rivendellは、和訳では「裂け谷」と訳されているようだから、英語風にライヴンデルと訓むのが正しいのかもしれない)の会議に入ってから難渋している。単語も急に難しくなるが、言い回しがきわめてやっかいなのだ。古風なのか、方言なのか、それとも正しい英語じゃないのかが、よくわからない。言っている内容はたいしたことはないのだが、とにかく重々しい言い回しが続いて、うんざりしている。イギリス人は、こういう部分も楽しめるのだろうか。