アマチュア無線 野田俊作
アマチュア無線
2002年02月23日(土)
今日も少し電子回路作りをした。高校時代、アマチュア無線をしていたので、こういうことは得意なのだ。
40年近くも前の話で、ちょうど真空管の時代の最後だ。トランジスタは、いちおう出回っていたが、品質管理が悪くて、同じ名前のものでもひとつひとつ特性が違ったし、出力も小さかったし、周波数が高くなると動かなかったので、ほとんど使うことがなかった。真空管は、ベトナム戦争中だったから米軍の払い下げも出回っていたし、日本製の良質の中古も大量にあった。それを買って、いろんなものを自作した。受信機も送信機も何台か自作した。組み立てキットじゃなくて、部品ひとつひとつから買い揃えて作ったんだよ。
たくさん面白いものを作ったが、ひとつ思い出すとすれば、米軍払い下げの電池で動く真空管を使って、50MHzのトランシーバをみんなで作ったことかな。2A3という名前の球だったと思う。これ一本で送信も受信もする。1リットルの牛乳パックくらいの大きさのアルミシャーシで作ったので、ずいぶんかさばるし、大きな電池が入っているので重かったが、それをもって山歩きをして、遠く離れておしゃべりして面白がっていた。
ちょうど私が高校を出るころ、アマチュア無線がAMからSSB(シングル・サイド・バンドという特殊な電波)に移り変わり、送信機も受信機も自作が難しくなってしまった。それで、やめてしまった。メーカーが作った機械で近所の友だちとおしゃべりしたりしても仕方がないし、遠い外国と交信できても、メーカーがいい機械を作ったからであって、自分の手柄じゃないような気がしたのでね。このあたりに性格特徴が出ているな。もっとも、そのころには他にすること(たとえば女の子を追っかけるとか)がいっぱいあって、無線に使う時間もなくなっていたけれど。
昔話は年寄りじみているけれど、今日はなにも書くことがないので許してください。
革命と愛
2002年02月24日(日)
昼間『ドクトル・ジバゴ』のDVDを見た。父の本棚に本があって、高校生のころ読んだことがあるが、ピンとこなかった。今、映画で見ると、さすがに高校生のころよりは男女のことに習熟したみたいで、細かい感情の機微がよくわかる。しかし、こんなに甘いメロドラマだったかなあ。ハリウッド製だからしょうがないね。
私が『ドクトル・ジバゴ』の小説にピンとこなかったように、中学生や高校生に名作文学を読ませたって、本当のところはわかるわけがない。大人になってもわからなくて、40歳50歳になってようやくわかることもたくさんあるし、70歳80歳になってはじめてわかることもあるだろう。
しかし、若い人に読書を勧めることに反対しているわけではない。若いころに読む癖をつけておくのはいいことだし、読まなくてもタイトルだけ覚えておくのさえ教養かもしれない。実際には体験のないことを文学の中で予行演習しておくことにも意味がありそうに思う。人間の生き方についてよいモデルを提示するという意味でね。しかし、学校であれこれ指導しても、どうせ読む子どもは読むし読まない子どもは読まないので、メニューだけ与えて子どもに読むか読まないかを選択させるというのがいちばんいい教育方針なのかな。強制すると嫌いになる子が増えるからね。
私はというと、いわゆる文学少年ではなかったが、それなりに読書はしたと思う。両親ともに読書人で、本棚にたくさん並んでいたので、適当に取り出して読んでいた。最初に夢中になったのは芥川龍之介で、中学3年のとき、受験勉強から逃避しつつ全集を、日記やメモにいたるまで読んだ。この読み方はその後も変わらないな。仕事から逃避して読書する点もそうだが、ある作家に夢中になって全集を読むのもそうだ。
高校時代には、どちらかというと詩が好きで、リルケなどを読んでいた。そのころ読んで感動した対訳のリルケ詩集(星野慎一訳注『リルケ詩集』郁文堂)は今も愛蔵しているが、高校時代の蔵書で残っているのはこれ一冊だけだ。父の遺品でもらった本は他に何冊かあるが、自分で買ったのはこの一冊しかない。大学に入ってからは、頼藤和寛の影響で三島由紀夫の全集を読んだ。いつも、あれこれ多くの作家を読む方ではなくて、少数の作家をのめりこんで読む方だ。その結果、読んだことのない作家がたくさんいる。
夜になって、テレビで、シベリアに抑留された人が長い遺書を書いて死に、戦友がそれを分担して暗記し帰国してから家族に伝える話があった。ドクトル・ジバゴもシベリア抑留も、同じソヴィエト共産党の残虐行為なので、連想しながら見ていた。国家が個人を暴力的に抑圧するということと、男女の関係ないし家族ということの間に、つまり革命と愛の間に、無数の悲劇があったのだと思う。
井上陽水が『傘がない』という歌を書いていて(著作権の問題で歌詞が引用できないので残念)、この間それが友人との間で話題になった。彼女は、「これは、この社会に対して、あまりにも無責任、かつ、自分の目先のことしか考えていない若者の気分、というのをうまいこと表現している」と評していたのだが、私は、「タゴールだとかハーフィズだとかいった宗教詩人が、神さまに夢中になってこの世のことを忘れてしまうエクスタシーを歌いますが、私は、この詩もそんな気分なんだと思っていました。恋愛は、異性に恋をするのであれ神さまに恋するのであれ、とても神聖なことで、その前では、アフガニスタンもへったくれもないですからね」と応えた。