CDを焼く 野田俊作
CDを焼く
2002年02月25日(月)
先日から、コンピュータの音声入力をデジタル化すべく格闘していたが、とうとう成功した。手始めに、カセットテープに入った音楽をCD-Rに焼いた。カセットテープそのままだと扱いにくいので、まずMDに入れなおす。それを1曲ずつパソコンに取り込んでWAVファイルにし、さらにそれをCD-Rに焼く。時間も手間もかかったが、これで永久保存できる。
その音楽は、友人が演奏したライブ録音で、ずいぶん古いテープだ。音質もすこし劣化してきているが、高音域に白色雑音様の連続音が入っている。スピーカで聴くと気にならない程度だが、ヘッドフォンで聴くとひどく気になる。WAVファイルの段階で、その雑音をかなりうまく消去できた。デジタル化さえしてしまえば、加工はとても楽だ。自分が演奏したのやら友人のライブやら、カセットテープがいくつかあるから、同じ手順でCD-Rにしておこうと思っている。
しかし、音の世界では、カセットテープはすっかり時代遅れになってしまった。それでもずいぶん長持ちしたよな。オープンリールのテープが消えていったのが1970年代じゃなかったっけ。それから30年ほど、カセットテープの時代だった。MDが出てきて、カセットテープで録音することが減ってしまった。音も悪いし、保存性も悪いし、消えていっても仕方がないと思う。CD-Rへの録音は、今はまだ現場ではできないので、しばらくはMDの時代かな。
パソコンのメディアはもっとターンオーバーが速い。最初のパソコンはカセットテープで、その後すぐに5インチのフロッピーディスクになり、それが3.5インチになり、MOになるのかなと思っているとCD-Rになり、もうちょっとするとDVDになるのかな。今では5インチのディスクに入れたデータを取り出す方法がなくなってしまった。そのうちCD-ROMも読めなくなるかもしれない。音のためのCDは、あと30年くらいはもつかもしれないが、パソコンのCD-ROMはそんなにもたないだろう。
パソコンは永久保存するデータがそんなにないし、もしあっても、新しいメディアが出るたびに簡単に変換できるのでそれでいいのだが、音は永久保存するデータがたくさんある。しかも、メディア変換は、ときとしてそんなに簡単ではない。でも、30年もってくれれば、私の寿命が尽きるから、私にとってはそれでいいのだが。
外国の本を読む
2002年02月26日(火)
オフィスへ行くのに45分かかる。電車の中で本を読む。専門書を読むこともあるし、新書などを読んでいることもある。それ以外の時間には、あまり本を読まない。
このところしばらくは『指輪物語』を読んでいる。リヴェンデルでの長い長い会議も終わって、ようやくフロド・バギンズは8人の仲間と旅に出た。しかし、この会議には参ったな。会話文があまりに難しすぎた。最後の部分を引用してみる。
At that moment Elrond came out with Gandalf, and he called the Company to him. 'This is my last word,' he said in a low voice. 'The Ring-bearer is setting out on the Quest of Mount Doom. On him alone is any charge laid: neither to cast away the Ring, nor to deliver it to any servant of the Enemy nor indeed to let any handle it, save members of the Company and the Council, and only then in gravest need. The others go with him as free companions, to help him on his way. You may tarry, or come back, or turn aside into other paths, as chance allows. The further you go, the less easy will it be to withdrow; yet no oath or bond is laid on you to go further than you will. For you do not yet know the strength of your hearts, and you cannot foresee what each may meet upon the road.'
'Faithless is he that says farewell when the road darkens,' said Gimli.
'Maybe,' said Elrond, 'but let him not vow to walk in the dark, who has not seen the nightfall.'
'Yet sworn word may strengthen quarking heart,' said Gimli.
'Or break it,' said Elrond. 'Look not too far ahead! But go now with good hearts! Farewell, and may the blessing of Elves and Men and all Free Folk go with you. May the stars shine upon your faces!'(pp.273-274)
そのときエルロンドがガンダルフとともにやってきて、一同を呼び寄せた。「これは私の最後の言葉である」。彼は低い声で言った。「指輪保持者は滅びの山を探す旅に出ようとしている。彼一人にすべての重荷がかかっている。指輪を捨ててしまってはならぬし、敵の手先に渡してはならぬし、それ以外の者にもけっして手を触れさせてはならぬ。ただし仲間の一行や会議の参加者は除くが、それも、いかにもやむをえぬ場合に限ってのことである。他の者は、道みちに彼を助けるべく、みずから望んでの同伴者として行くのである。汝らは、ときとして、遅滞し、引き返し、あるいは他の道にそれることもあるやもしれぬ。遠く行けば行くほどに、撤退することは難しくなろう。汝らが望むよりもさらに遠くに行けという契約も束縛も、汝らに課せられてはおらぬ。汝らはみずからの心の強さを知らず、また、おのおのが道すがらに出会うものを予見することができぬのであるから」。
「道暗くなりたるとき去らんとするは誠なき者」とギムリが言った。
「かもしれぬが」とエルロンドは言った。「夜の訪れを見たことがない者に、暗闇を歩くと誓わせることはできぬ」。
「されど誓いの言葉は震える心を強めるやもしれませぬ」とギムリが言った。
「あるいは破るかもな」とエルロンドは言った。「あまり遠くを見るでない。よい心をもって行かれよ。さらばだ。エルフと人間と他のすべての自由な民の恵みが汝らとともに行くように。星ぼしが汝らの顔を照らすように」。
どうも、ある階級の言葉を反映しているようだ。シェークスピアなどを勉強すると、どういう階級がどの言葉を使うのかわかるのだろうな。イギリスでは、今でもエルロンドのような喋り方をする階級があるのかもしれない。ギムリみたいな言葉使いは、きっと今はもうないんだろうな。それはそれで面白い読み方だが、そんなことを勉強する気はない。小説はめったに読まないんだし、論文を読んだり書いたりする本職には役に立たないし。
むかしは、ドイツ語やらフランス語やらの本も読んだ。今はもう、英語以外の外国語を読むのはおっくうだ。『ドクトル・ジバゴ』を読むためにロシア語を勉強するというようなことは、もうしない。英訳で読んで満足する。和訳は、どんな名訳でも、ヨーロッパ語とは呼吸が違うと思う。英語なら、かろうじて、作者の息づかいの名残りがある。
英語圏以外の外国の文献を英訳で読むことの便利さを発見したのは、アメリカにいたときだ。「臨床心理学の他流派のうちのひとつをとりあげて、アドラー心理学との異同を比較せよ」なんていう課題が出て、ビンスワンガーというスイスの精神医学者の文献を引用しようと思った。しかし、当然のことだが、英訳本しか手に入らなかった。その中で、「世界内存在 In-der-Welt-sein」という単語が"being-in-the-world"と訳されているのを見て、ああ、英語で読んだほうが和訳で読むよりもずっとわかりやすいんだと思った。それ以来、哲学書は英訳で読む。アドラーの著作だけは、仕方がないので、まず英訳で読んでから、引用しようと思う部分だけをドイツ語の原文で確認しておく。しばしば誤訳があるんでね。
哲学書だけではなくて、英語以外で書かれた小説も、和訳では読まないで英訳で読む。最初から英語で書かれた小説は読まない。英語が難しすぎる。詩は、翻訳では、音が違ってしまうので、どうしようもない。だから、英訳じゃなくて、ドイツ語なりフランス語なりで読む。短いので、たとえ全部の単語について辞書をひいたって、そんなに苦痛じゃない。パステルナークの詩を読むためならロシア語を勉強するかもしれない。ハーフィズの詩を読むためだけの目的で中世ペルシア語を勉強したことがあるもの。あまりものにならなかったけれどね。