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スレッドNo.87

論語でジャーナル

第17 陽貨篇

1,陽貨、孔子を見(まみ)んと欲す。孔子見えず。孔子に豚(いのこ)を帰(おく)る。孔子その亡きを時として往きてこれを拝す。諸(これ)に塗(みち)に遇(あ)う。孔子に謂いて曰く、来たれ。予(われ)爾(なんじ)と言(かた)らん。曰く、その宝を懐きてその邦を迷わす、仁と謂うべきか。曰く、不可。事に従うことを好みて亟(しばしば)時を失う、知と謂うべきか。曰く、不可なり。日月(じつげつ)逝(ゆ)く、歳(とし)我と与(とも)にせず。孔子曰く、諾(だく)。吾将(まさ)に仕えんとす。

 陽貨が孔子に面会を申し込んだが、孔子は会わなかった。陽貨は子豚を進物として贈ったが、孔子は会いたくないので陽貨の留守をねらって返礼に出かけたが、途中で陽貨に出くわしてしまった。陽貨は孔子に重々しい調子で話しかけた。「さあ、私のもとに来なさい。私とともに語り合おう。あなたは宝石のような立派な才能を懐きながら、政治の地位につかず、国に混迷を与えいる。これを仁と言えるのか?」。孔子は答えて言われた。「仁とは言えない」。陽貨はさらにたずねた「好んで国事に奔走しつつ、しばしば好機を見過ごしている、これを知と言えるだろうか?」。孔子は答えた。「知とは言えない」。陽貨はすかさず言った。「月日はどんどん過ぎていき、歳月は、私を待ってはくれない」。孔子は答えた。「そのとおりです。私も近いうちにあなたにお仕えしましょう」。

※浩→陽貨(陽虎)は、魯国の家老・季氏の家臣でしたが、主人の季氏をもしのぐ権勢をを持ち、下剋上の代表として、応仁の乱の松永弾正的な人物であった、と、吉川孝次郎先生。孔子58歳のとき、ついに謀反を起こし、主人の季氏ばかりでなく、魯の皇室に対しても弓を引き、それに失敗すると、魯の皇室の重要な宝物である玉と弓を持ち出して、国外へ逃亡した。まだ謀反を起こす前に、この大悪人が、孔子を自分の家臣として召し抱えたいと会見を申し込んだのですが断られました。そこで一計を案じて、進物として子豚を届けました。大夫から士に進物を贈ると、士はその家に出向いて答礼をしなければならないという風習があることを利用して、面会に応じない孔子に、無理にでも会おうとして、陽貨がこの計画を立てたのです。孔子もまた相手の策略を逆用して、陽貨の留守をねらって、答礼に出かけようとして、途中で運悪く陽貨に出会ってしまいました。陰謀家の陽貨は、留守の噂を流して孔子をおびき寄せたのかもしれません。陽貨は忠節・義理の徳に背いた計算高い政治家ではありましたが、知略と武勇に優れた英傑でもあり、さしもの孔子も陽貨からの直々の申し出を厳しくはねつけることはできなかったのでしょう。主君への忠義を重視する孔子でしたが、陽貨の類稀な為政者としての才覚については認めていたという説もあるそうです。目下の孔子に向かって陽貨のほうから話しかけています。ここからは貝塚先生の解釈が面白いです。この陽貨の話しかけは、孔子一門において師匠が弟子に物語りする形式を使っています。さすが一世の政治家らしい機転の利かせ方で、孔子はすっかりあっけに取られてしまったのでしょう。結局、切り返すどころが、「いずれ時を見て仕官する」みたいなことを言ってしまいました。実際には仕官することはなかったそうです。
 有能な人材を採用しようとするときのヒントになりそうです。孔子ほどの人格者で高名な人が、こういう対処をしていたことに、むしろ驚きと親近感を覚えます。私は、以前、ある高校でスクールカウンセラーを務めていましたが、相棒が他校へ転勤したことで、1人になったため、年度が替わって間もなく、5月くらいに管理職に辞意を表明しました。当然引き留められましたが、こちらの辞意は固く、粘りましたが、ふと、その管理職の前任校に筆者のかつての同僚が校長になっていていろいろ世話になったと聞いて、そのかつての同僚への懐かしさが助けて、任を継続することにしました。それでも、結局その年度中は持たないで、秋ごろには辞めました。現在はというと、10月に一旦現職を辞して、1回だけ出勤しないでいました。やがて校長から復帰を求められ、私を必要とされる熱意溢れる先生方の支持もあって、その月末に復帰しました。私が不満を抱いた事態はほとんど未解決のままですが、やはり私を必要とされる方々を無視できなくて、勤務を継続しています。この年度末にまた「継続か辞任か」の選択をすることになりそうです。

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