反折衷主義 野田俊作
パートソング/塩
2002年03月07日(木)
今日も体調は完全ではなく、休暇をとって一日家にいた。なにもしないのもいやなので、昨日に引き続いてビデオの編集をしていた。待ち時間が長い作業なので、その間パートソングのCDを聴いていた。
パートソング(partsong)といっても、知っている人は少ないと思う。19世紀から20世紀の前半にイギリスで書かれた合唱曲だ。ふつうは無伴奏の混声合唱だが、男声合唱もある。たまにピアノ伴奏がついたものもあるがごくめずらしい。ソロがついているのもないことはないが例外的だと思う。日本の合唱曲のように組曲になっているものもあるかもしれないが、一曲ずつ独立しているのが普通だ。
パートソングを書いたのは、エルガーとか、ヴォーン・ウィリアムズとか、ホルストとか、ディリアスとかいった、「イギリスの」一流作曲家たちだ。「イギリスの」にわざわざカッコをつけたのは、イギリスへ行くと、クラシックCDの売上上位はいつもこの人たちの作品だそうだし(パートソングじゃなくて、交響曲や協奏曲だが)、クラシックのコンサートのプログラムにはこの人たちの作品が含まれていないと聴衆が承知しないという。中世の作曲家ジョン・ダンスタブルからついこの間亡くなったベンジャミン・ブリテンまで、イギリスの作曲家でさえあれば人気があるようで、音楽についても国産品愛用に徹しているとか。これらは誰か音楽評論家が言っていたのの受け売りで、自分で確かめたわけではないが、ありそうなことだとは思う。
ともあれ、パートソングはきわめてイギリス的な音がする。いや、イギリス的な音なんだかどうだか、実はよくわからない。他の国の音楽とはきわめて違った音がする。真冬に聴くと寒くて仕方がないし、真夏に聴くと暑苦しくてしかたがない。今ごろの季節か晩秋に聴くのがいい。イングランドやスコットランドの霧にけむった海と空と森の音がする。ときどきこの作曲家たちの管弦楽作品も聴くが、同じ音がする。ドイツ音楽みたいに元気じゃないし、フランス音楽みたいに洒落ていないし、イタリア音楽みたいに情熱的じゃないし、ただただ「くつろいでいいよ」という音がする。悪く言えば、労働意欲のなくなる音楽だ。体調がよくないときには向いているかもしれない。
ところで、今夜の夕食は、カツオのナマブシの生姜煮、大根の鶏そぼろあんかけ、ブロッコリーの和風サラダ、ネギと豆腐の味噌汁を作った。この間、サラダのドレッシングについて尋ねる人があったのだが、天然リンゴ酢2:ひまわり油1をベースにして、これにオリーブ油と荒塩とコショウを加えて西洋風にするか、ゴマ油と醤油と唐辛子(鷹の爪をそのまま入れる)を加えて和風にするのが普通だ。その都度作る。
材料にあまり凝るほうではないけれど、塩だけは各種そろえていて、使い分けている。ドレッシングには、お遍路に行って、第十番札所切幡寺の下にある仏具屋に売っていた中国製の深層塩の結晶を使っているが、これはいい塩だ。残念なことにもうすぐなくなる。あそこへはもう行かないので、別のいい塩を探さなくては。煮物は、石垣島に行ったとき手に入れた、沖縄県粟国島の塩を使っている。石垣島まで行かなくても、「ワシタショップ」にも売っているようだ。漬物にもよさそうな塩だが、パートナーさんは漬物を食べる習慣がないので、家では作ったことがない。焼き物にはヨーロッパ製の岩塩を使っているが、もうちょっといい塩がほしいと思っている。
塩だけで調味することもある。野菜くずを塩水で煮て作ったブイヨンでポタージュスープを作ったり、魚が新しければ酒で煮て塩だけで味つけすることもある。試したい人に言っておくけれど、食卓塩でするとまずいよ。
多動症
2002年03月08日(金)
光が日一日と春になる。庭の白木蓮もつぼみがふくらんできた。
3月1日に渓流釣りが解禁になっているのだが、最初の2週間ほどは成魚放流した魚を釣りに行く釣り人でいっぱいなので、私は行かない。まるでパチンコ屋みたいに人が並んでいる。そんなところで釣っても仕方がない。3月下旬か4月初旬になってから出かけると、誰もいない静かな沢が待っている。もっとも、人もいないが魚もいないので、そんなに釣れないのだが、それはそれでかまわない。春の光の中で一日すごせれば、それでいい。しかし、今はまだ時ではない。
登山は、先日(02/20)ちょっとした雪山散歩をしていらい行けていない。雪山キャンプの予定があったのだが、急速に暖かくなって、中止した。雪がゆるくなって雪崩の危険がある。雪がなければただの枯木山で、風情もないもない。しばらくは登山も行けない。5月ごろかな、次は。
海釣りは、一年で一番釣れない季節だ。グレ(メジナ)はもう終わりだし、メバルはまだすこし早い。わざわざ海へ出かけても、何も釣れないで帰ってくるのがオチだ。それに、このごろ渓流釣りや沢登りで忙しくて、海釣りは南の海へ行ったときしかしていないので、腕がうんと落ちていると思う。
そういうわけで、休日も家にいることになる。そうなると、休憩した気がしなくて、出勤する日もなんとなく疲れているように思える。とにかくじっとしていられない人なんだ。子ども時代からそうだった。今だったら多動症だと言われていたと思う。多動児でも、こんなにちゃんと(?)大人になるんだから、親たちは心配しなくていいよ。
反折衷主義
2002年03月09日(土)
地方でアドラー心理学運動の世話人をされている人の中に、アドラー心理学以外の心理学諸流派にも関心のある方が何人かいらっしゃって、他派の指導者を招いて講演会やワークショップを開催されることがある。そのことについて、学習者たちから、「アドラー心理学のお勉強だと思って参加したのに違った」だの「なにがアドラー心理学でなにがアドラー心理学でないのか区別できない」だのといった不満をよく聞かされる。
日本の臨床心理学の主流は折衷主義になりつつあるように思う。アメリカではずいぶん前からそうだから、日本が追随するのは仕方がない。だから、折衷的にさまざまな流派の心理学を学ぼうと考える人のほうがアップ・トゥ・デートで、私のようにある流派の心理学一本で行こうとするほうが時代遅れなんだろう。それはそうなんだけれど、個人的な感想として、アドラー心理学を学んでからは、他の流派の理論や技法を取り入れる必要をあまり感じないのだ。アドラー心理学だけでほとんどの問題は解決できると思っている。だから、そういう折衷的な世話人さんたちが、なぜ他派の理論や技法を折衷したくなるのか、あまり理解できない。理解できないが、彼らがそうしたいのであれば、それはそれで仕方がないとも思うので、彼らに忠告したことは一度もない。
私に不満を言う学習者たちは、私が世話人たちの折衷主義になにも言わないことも不満みたいだ。「なぜ野田さんは、『アドラー心理学でないものを学ばないでください』って言わないんですか?」と、私に詰め寄ったりする。そんな無茶を言わないでよ。なるほど私は反折衷主義のアドラー心理学原理主義者だよ。でも、人に反折衷主義を強要する気はない。また、地方のアドラー心理学運動がどう動くかは、その地方の学習者が決めることであって、私には決める権利がない。もし折衷主義的な世話人がいやなら、反折衷主義的なグループを作ればいいじゃないか。従来の折衷主義的な世話人を支持するか、新しい非折衷主義的なグループを支持するかは、地域の学習者が民主的に決めればいい。そういうものだと思っている。