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スレッドNo.877

男性として尊敬できるか?

男性として尊敬できるか?
2002年03月10日(日)

 夫とのsexを拒否している女性が、その理由を「夫の子どもは産みたくないから」と言った。ある特定の女性というわけではなく、何人もの女性がそういうことを言う。ふうむ、これって、女性にしかわからない感覚かもしれない。男性が女性に「この女に私の子どもを産ませたくない」とは、まず思わないものな。逆に、「この女に私の子どもを産んでほしい」と思ってsexするわけでもなさそうに思う。だいたい、男性の心の中では、性行為と妊娠・出産がそれほど結びついていない。しかし、女性の心の中では、やはり、この両者は強く結びついているんだ。だから、女性が男性を受け入れる場合には、「この人の子どもを産みたい」と思っているんだな。おおこわ。
 どういう男性はsexしてもらえないのだろうか。sexを拒否している女性たちの意見を総合すると、要するに「男性として尊敬できない」男性が拒否されるようだ。そんな話をしていたら、さっそくフェミニストらしい女性から、「『人間として尊敬できない』男性ではいけないんですか?」と質問があった。彼女らは、かならずここにこだわるんだね。「男性として尊敬できない」でないとおかしいですよ。だって、逆に、セックスの対象となる男性は「男性として尊敬できる」男性であるはずで、「人間として尊敬できる」男性ではないでしょう。
 いや、これも男性的な感覚なのかな。私は、「いい女」とはsexしたいが、「いい人間」とsexしたいわけではない。また、誰か女性が私とsexしたがっているとして、なぜ私を受け入れるのか尋ねたら、「あなたはいい男だから」と言われると納得するけれど、「あなたはいい人だから」と言われるといやな感じだ。女性だってそうじゃないのかな。だって、性行為は、文字どおり性的な関係で、性的な差異(それが生物的なものであれ社会的なものであれ)が重要な鍵であるはずだ。
 もっとも、ここで「いい女」とか「いい男」とか言っているのは、さすがに私の年になると、容貌のことではなくて、「女性として尊敬できる」「男性として尊敬できる」という意味だ。ちなみに、今日は私の54回目の誕生日だ。



ジェンダー・センシティヴ
2002年03月11日(月)

 ある新聞記事に三流フェミニストの講演の要約が載っていて、「ジェンダー・フリー」の重要性を説いていた。生物的な性別をセクシュアリティ、社会的な性別をジェンダーというように区別する。しかして、ジェンダーは社会的な合意だから、どのようにでも変更できる。ここまでは私も合意する。ところが、三流フェミニストたちは、ジェンダーが性差別を作ってきたのだから、性差別撤廃のためにはジェンダーを撤廃すべきだという。
 ちょっと待ってよね、なるほどジェンダーという概念自体を拒否してしまえば、社会的な性の区別はなくなるけれど、それでいいのだろうか。区別がなくなることって、かえって差別的なんじゃないか。むかし、同文同種だとかいって、台湾の人々や朝鮮半島の人々に日本語や日本文化を押しつけたのと、同じ発想じゃないか。そこまでひどくなくても、たとえばアイヌの人々や沖縄の人々を文化的に根こそぎにして「同化」させているのと同じ発想じゃないか。それはひどい差別だよ。
 ジェンダーは、たしかに性差別と関係してきた。だから、差別と関係しない新しいジェンダーの区別を作らないといけない。それは賛成だ。そのために、ジェンダーそのものを否定してはいけない。私はそう思う。アドラーは、「同等(sameness)」と「平等(equality)」は違うといった。あの人はいつも賢いね。男女は違っているが、違ったままで平等でいられると思う。
 「ジェンダー・フリー」という概念の出典はどこなんだろう。最初に言った人は、それなりに考えて、ちゃんとわかって言ったんだろうね。提唱者となら話が通じそうに思う。しかし、今それを引用している三流フェミニストたちは、概念の内容をきちんと再検討しないで、ただ言葉だけを引用して、浅薄な解釈を加えて、さもわかったように思い込んでいるだけだと思う。
 「ジェンダー・センシティヴ」という概念のほうが有益な気がする。既成のジェンダーを鵜呑みにしないで、いつも再検討を加えていく、しかも否定しない、という態度だ。



最終的解決
2002年03月12日(火)

 昨日、ジェンダーのことを書いたが、それに限らず、なにごとについても、「最終的な答え」は存在しないと思っている。男女のあり方についても、無限に問い続けていかなければならず、しかも解答には到達しない。ある答えを得たと思ったら、その答えでは通用しない問題があらわれ、また問い直さなければならなくなる。無限に問い続けていくしかしかたがない。
 そうしているうちにいつか、問いそのものが無意味になることはある。たとえば、「死後われわれはどこへ行くか」というような問いは、今はもう無意味になりつつある。男女のあり方についての問いも、いつか無意味になる時代がくるかもしれない。それまでは、それはくりかえしわれわれに挑戦してくる。考えて、議論して、修正して、しかも最終的な解答には到達しない。
 そういうふうな永久革命論者なので、いつも最終的解決論者をいらだたせる。しかし、「最終的解決(final solution)」なんて信じないほうがいいよ。むかし、国際アドラー心理学会の評議員会で、ドイツの委員がこの言葉を使ったので、ユダヤ系の委員が一斉に退席したことがあった。だって、ヒトラーが「ユダヤ問題の最終的解決」といって、ガス室を発明したんだもの。いつだって、最終的解決なんて、そんなものなんだ。
 性差別についても人種差別についても、その他あらゆる不合理なことについて、無関心でいてはいけないと思う。センシティヴでなくてはね。でも、最終的解決に到達したと思ってもいけない。そういうものはないんだよ。

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