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スレッドNo.879

地と図    野田俊作

地と図
2002年03月15日(金)

 ある友人が、「『昭和5年8月、谷崎潤一郎と千代夫人は離婚し、千代夫人は、佐藤春夫と結婚した』という言明は、『意見』か『事実』かというと、『事実』だ」と言った。私は、「谷崎夫婦が離婚したことをとりあげて、たとえば『昭和5年8月、谷崎潤一郎の浴衣の右すそを食べていたシミは、千代夫人がかけたアイロンで殺された』ということをとりあげないのは、無数の事象の中から、ある事象だけを選択してとりあげているので、そこに恣意が働いているから、かならずしも事実とはいえない」と反論した。
 ゲシュタルト心理学でいうところの「地」と「図」の話をしている。人は、知覚された表象のなかから、あるものを「図」としてとりだし、残りを背景の「地」にしてしまう。図のとりだしかたは、多くの人に共通しているので、あたかもそれが「事実」であるかのように通用してしまう。しかし、共通しているからといって、それが「客観的」であることにもならないし、「事実」であることにもならない。
 先日テレビで『フォレスト・ガンプ』という映画をやっていた。ストーリー全体はきわめてくだらないのだが、主人公の障害者の青年が、健常者とは違うやり方で事態を解釈するのが面白かった。妙な具合に図をとりだすのだ。ホワイトハウスで大統領と会ったとき、ソフトドリンクが飲み放題だったのがよかったとか。
 このことは、むかし、神戸の震災のボランティアに行ったときに気づいた。被災地で起こっていた無数の事象の中から、マスコミはきわめて恣意的に「うちひしがれた被災者」と「がんばっている被災者」とをとりだした。どちらでもない被災者もたくさんいたんだよ。でも、そういう人たちはニュースにならない。マスコミは、「われわれは『事実』を報道した」と主張するだろう。彼らが報道したのは、彼らが好んだ事実だけだ。彼らの意見を反映した事実だけだ。
 マスコミが報道したのとは別に、本当の事実があると主張しているわけではない。私が知っている震災の事実は、私の意見を反映している。誰かの意見を反映しない事実は存在しない。すべては語り手の物語なのだ。どこにも物語(ヒストリア)を離れた歴史(ヒストリア)はない。どこにも厳正中立の事実などはないのだ。



聴覚型
2002年03月17日(日)

 大熊昭信『文学人類学への招待』(NHKブックス)という本を読んでいたが、あまり面白くない。なぜ面白くないのか考えてみたのだが、あらかじめ用意された図式でもって文学作品を読みといていくやり口が気に入らないのだと思う。たとえば、通過儀礼と脱通過儀礼だとか、ケ/ケガレ/ハレだとか、ノモス/カオス/コスモスだとかいったモデルをあらかじめ用意しておいて、それでもって文学作品を解釈するのだ。
 統計学を連想した。あるデータにある操作をほどこして、平均値なり分散なり相関なりを計算する。そうすると、それまで見えなかったあるものが見えてくるのだが、一方で切り捨てられて見えなくなるものもある。統計の場合は、現象を構成するできるだけ大きな要因について説明しようとするので、切り捨てられる部分はそれほど大きな要因ではない。しかし、文学人類学なる方法論では、モデルがはたして作品を構成する大きな要因を投影できているのか、なにも保証がない。
 いや、その前に、そもそも、作品をモデルに投影しているのか、逆にモデルを作品に投影しているのかがわからない。文学作品よりも前に、ケ/ケガレ/ハレというようなモデルがあって、作者の意図や読者の読解とは関係なく、作品にそのモデルを押しつけているだけなのかもしれない。だから、実は、作品については何も説明していなくて、解釈者の心理を説明しているだけなのかもしれない。
 このやり方は、心理学ではユング心理学が得意にしている。ユング派の分析は、患者の心理を分析しているのではなく、患者をみている治療者の心理を分析しているにすぎないような気がする。文学人類学にも同じ臭いがする。
 この本を読んでいて思ったのは、著者が視覚的にものごとをとらえる習性が強いことだ。私はものごとを図式的にとらえるのが苦手で、物語を時系列として体験することしかできない。文学人類学やユング心理学についてゆけないのは、私が聴覚型だからかもしれない。



聴覚型(2)
2002年03月18日(月)

 パートナーさんと、映画『ロード・オブ・ザ・リング』を見に行った。下見の結果は、それほどかんばしくなかったのだけれど、一緒に見ておかないと話題にできないしね。パートナーさんが言うには、「これは『コンバット』ね。戦いにつぐ戦いと、友情と」。なるほどね。
 原作では「見えない敵に追われている感じ」が強いのだが、映画では敵が見えすぎているように思う。その結果、戦いの連続に見えてしまう。ホビット庄(シャイア)からリヴェンデル(裂け谷)の間でも、モリアの鉱山でも、アンドゥイン川を下る場面でも、原作は多くのページを「追われている感じ」の描写に費やしている。読みながら、登場人物の、特にフロド・バギンズのびくびくした怯えを感じ続けなければならなくて、それがとてもつらい。ところが、そういう場面は視覚的に表現しにくいので、映画ではあっさりとしか描かれない。代わりに、戦いの場面に多くのエネルギーが使われるが、文学作品では戦いの描写を何ページも続けるわけにはいかない。つまり、原作は聴覚型なのに、映画は視覚型なので、原作の追跡妄想的な気分を描写しそこなっていて、その結果、フロド・バギンズが神経質になっていく理由がわからなくなっている。そしてただ、暴力の衝突ばかりが描かれることになる。
 出来はあまりよくないのだけれど、第一部を見ちゃったから、第二部・第三部も見ることになるのだろうな。しかし、この映画は流行らないよ、きっと。


フロドの職業
2002年03月19日(火)

 『指輪物語』の主人公のフロド・バギンズの職業はなんなんだろう。原作にも、職業についての記載がまったくない。もちろん、彼の叔父のビルボも同様で、職業不明だ。
 イギリスの世襲貴族階級をモデルにしているのだと思う。荘園があって、そこからの小作料で暮らしている人々だ。そう贅沢はできないが、つつましく暮らすのであれば、一生働かないで暮らせるらしい。19世紀の学者や芸術家には、そういう人が多かったようだ。たとえば、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』をペルシャ語から英訳したフィッツジェラルドという人もそういう人で、あまりに暇で、なにもすることがないので、ペルシャ語を勉強したのだそうだ。この仕事以外はなにもせず、毎日「クラブ」に通って無駄話をして過ごした。「クラブ」といっても、女の子のいる飲み屋じゃないよ。男性ばかりの社交クラブだ。これは架空の人物だが、『八十日間世界一周』の主人公フォグ氏もそういう人で、クラブでの会話の中で、八十日間で世界を一周できるかどうか賭けをして話がはじまる。
 今でもイギリスにはそういう社会階級が存在するのだろうか。存在するから、フロド・バギンズの職業についてなんの記載もなくても、読者が不思議に思わないのだろう。日本にも、かつてはそういう階級が存在したようで、たとえば吉田健一の小説に出てくる人物などがそうだ。それともあれは、イギリス在住経験が豊富な吉田健一のフィクションなのだろうか。今の日本は、そういうことがわからなくなるくらい、労働者階級しか存在しない共産主義社会になってしまった。マルクスが見たら喜ぶだろう。
 私も、できたら働かないで、読んだり書いたりして暮らせるといいなと思っている。父もそう思っていたようで、祖父もそう思っていたらしい。しかし、実際には、祖父も父も私も働いている。働くのは仕方がないが、ちょっとだけイギリス貴族風に暮らそうと思っていて、それでこういうものを書いたりするのかもしれない。

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