区別と差別 野田俊作
区別と差別
2002年03月21日(木)
講演の中で、「言葉のない程度の重度の発達障害児や自閉児には、アドラー心理学の育児法は使えない。スキナー式の応用行動分析のほうがいい」と言ったら、「野田さんは発達遅滞児や自閉児を健常児と分け隔てするのか」と質問があった。ははあ、例の悪平等主義者だな。
先日も書いたけれど、「同じ(sameness)」と「平等(equality)」は違うんですよ。本来は、子ども一人ひとりの違いを認め、それに合わせて育児や教育をデザインしないといけない。それが平等ということです。とは言え、多くの子どもは似ているので、その子たちのための平均的な育児法や教育法というものがありえて、それがたとえばアドラー心理学なのです。しかし、中には例外的な子どもがいて、その子たちのためには例外的な育児法や教育法が必要になる。言葉がないという形で例外的な子どもに対しては、応用行動分析がとても有効なことが証明されている。その子たちにまでアドラー心理学を使おうとするのは、犯罪的です。
学校教育についても同じことで、そのような子どもたちに、平均的な子どもと同じカリキュラムを押しつけるのは、激しい差別だ、一方で、知能が優れすぎている子どもに対する、いわゆる「英才教育」も、平等性を確保するために必要だと思う。平均的な学校教育では、その子たちをつぶしてしまう。
しかし、こんなことを主張すると、この国では、「差別論者」だと言われてしまう。違うんですよ、これは「区別」です。子ども一人ひとりの違いを認め、それに合わせて育児や教育をデザインするのが「平等主義」の原則なのだが、ただ多くの「平均的な子ども」は、一般的な育児法や一般的な学校教育で充分だ。一部の「例外的な子ども(exceptional children)」には、一般的な育児法や学校教育は不向きで、その子たちにより適した育児法や教育法を使わなければならない。そうしないと、悪平等による差別になってしまう。
本日限り
2002年03月22日(金)
このごろ仕事で液晶プロジェクタを使うことが多くなったのだが、貧しいわが社は買うことができず、いつも仲間のを借りていた(ありがとうね)。年度末の決算状況を予測すると、なんとか買えそうな感じなので、日本橋(にっぽんばし)へ買出しに出かけた。何台も並んでいて、実際に映写して比較することができた。その中の一台が、「本日限り限定10台」と書いた特価品で、しかも性能がよさそうなので、それを買ってきた。思ったよりはるかに安くて助かった。
しかし、電気製品も「本日限り」なんていう売り出しがあるんだ。スーパーマーケットの食品売り場みたいだな。これに限らず、家電量販店のサービスは、このごろきわめて多彩だ。『ロード・オブ・ザ・リング』の無料券もくれたし、お誕生日記念で買い物ポイントも500円分おまけしてくれた。こんなことまでするのは、それだけ競争が激しいんだ。パソコンや周辺機器も、需要はもう飽和状態だものな。逆にいうと、今は買いどきなのかもしれない。
昨日の夕食の残りをオフィスに持っていって、スタッフにふるまった。エビとタケノコのカレーだが、評判がよかったので、作り方を紹介しておく。家庭料理だから、あちこち手抜きしていいかげんな作り方をするのだが、けっこうおいしい。
タマネギ2個を薄く切って、水から強火で煮て、煮立ったら溶けはじめるまでトロ火で煮る。即席鶏ガラスープの素で味つけする。タケノコは千切りにしてパック詰めしたもの2つを買ってきて、タマネギが柔らかくなったら入れる。エビ10匹ほどは、頭と脚をとって、殻ごと炒めてから入れる。カレー粉を数種類加える。カレー粉を混ぜるといいところが遺伝するので、市販の普通のでいいから、何種類か用意しておく。辛いのが好きな人はチリペッパーを加える。カレーの味が調ったら、ココナツパウダーを加える。ダマになりやすいので、水で溶いてから入れること。
孫
2002年03月23日(土)
先日講演していたときのことだが、子どもが不適切な行動をしたときに、ペナルティとして食事を抜くのは、アドラー心理学の育児の許容範囲かどうかという質問が出た。1)子どもの不適切な行動と食事を食べる権利を失うという結末との間に論理的な連関があり、2)子どもが論理的な連関を理解できる年齢に達しており(目安は5歳)、3)子どもがあらかじめこの結末を知っており、4)親が感情的にならず冷静に対応できている、というような条件が整えば、理論的には許容範囲なのだが、それはそれとして、「食事を抜くというような、身体的に苦痛のあるペナルティは、かわいそうじゃないですか」と私は言った。言ってから、「年をとったなあ。娘が孫を厳しくしつけているのを見て、『そこまでしなくても』と言っているおじいちゃんみたいだ。『おじいちゃんは黙っていてください!』と言われそうだな」と、ちょっと反省してしまった。
子育てが終わってしまって、孫がいてもおかしくない年齢になった。しかし、子どもたちは結婚しそうにないし、子どもを産みそうにもない。だから、孫は、当分はいないだろう。それでも気分的にはおじいさん化するんだ。
今は別府にいる。着いたのは午後9時だったが、地元の友人たちが飲み屋で待っていて、関サバのお刺身などをいただいた。上の話をしたら、実際に孫のいる人が2人いて、孫のかわいさをさかんに吹聴する。子どもとはまったく違って、孫はとほうもなくかわいいという。しかし、彼らの親たちを観察していると、ひ孫はそんなにかわいくないみたいだという。遺伝子に書いてあるのかな。むかしはひ孫を見るというようなことはまずなかっただろうから、遺伝子はそこまでは配慮してくれないのかもしれない。