閉所恐怖症 野田俊作
閉所恐怖症
2002年04月12日(金)
東京へ新幹線で向かう列車の中で、フレデリック・ポール『ゲイトウエイ』(ハヤカワ文庫)というSFを読んでいた。金星の軌道の近くの小惑星に宇宙人が残した基地が発見されて、宇宙船がたくさん残っていた。人類発生以前のものだが、まだ動く。それに乗って宇宙のかなたへ出かけるのだが、操縦法がよくわからない。とにかく出発すると、いつか目的地について、また出発点へ帰ってくる。目的地には、宇宙人が残した遺物がある場合があって、それを持って帰ってくると懸賞金が出る。そのようにして宝捜しをする話だ。
私は閉所恐怖症気味なので、狭い空間に閉じ込められて何日も何日も暮らす様子が描写されていると、息苦しくなる。そのうち、「のぞみ」の車内が宇宙船みたいに思えて、ほんとうに苦しくなってきた。小説を読むとき、とても深く入り込んで読む。新幹線の中では、もっと広々した場面の出てくる小説にしよう。
三人姉妹
2002年04月13日(土)
アドラー心理学会東日本地方会の余興に、東京の事務所の人たちを中心に、チェホフの『三人姉妹』のパロディをするという。台本を書いてくれとだいぶ前に頼まれていたのだが、忙しくて手がついていなかった。それでも、原作は数回読んでいた。今日、東京に来ると、「どうなってるの」と矢の催促。「じゃあ、今日書こう」ということになった。
仕事は3時に終わった。その後、スタッフは5時まで仕事があるので、私は池袋の山道具屋に沢登りの道具を買い出しに行った。東京はこういうところがいい。まだシーズンは始まっていなくて、スキーだのスノーシューだのも売っているのに、沢道具もちゃんと一式並んでいる。大阪では、なかなかこうはいかない。必要なものを買って、5時ごろ事務所に帰った。スタッフも仕事を終えたので、みんなで夕食を買ってきて、チーズだのクラッカーだのサラダだので盛り上がり、6時ごろ作業にとりかかった。出演者たちと話をしながら作っていった。8時ごろにはすっかりできあがっていた。
中味について詳しく紹介するわけにはいかないが、一方ではある人たちをあてこすって批判しながら、もう一方では日本アドラー心理学会の有名人を茶化すという、相当俗悪な内容だ。こんなもの、ほんとうに上演していいんだろうか。しかし、芝居ってそもそもそういうものなんじゃないか。本番を見て気を悪くする人があるかもしれないが、余興なんだから許してね。
首都圏の不便さ
2002年04月14日(日)
アドラー心理学の基礎理論の講義をしていたが、質問の時間に、ある人が、「私は首都圏で生まれ育った。文化の中心にいると思っていたが、アドラー心理学が関西中心なのは面白いと思う」と言った。心理学では別に珍しいことじゃないよ。ユング派は河合先生がいらっしゃるので京都が中心だし、フロイト派も西園先生がいらっしゃるので九州で盛んだ。首都圏に住んでいる人の思い上がりだな。
私にとって、東京はけっして働きやすくない。たとえば、鳥取県とか高知県とかで講演をするなり講義をするなりすると、すぐに町中に噂が伝わる。熱心な世話役さんさえいらっしゃれば、主要なほとんどの人に情報が届く。そうして聴きにきた人々は、「あれもこれもつまみ食いして、ついでにアドラーを」というのではなく、はじめからアドラー心理学を学ぶ気できている。だから、自主的な勉強会も長続きする。ところが、大都会ではそうはいかない。まず情報が届かない。届いたとしても、聴衆の多数が流動人口で、これまでも心理学をかじったことがあり、今はしばらくアドラー心理学に来ているが、やがてどこかに去っていく。勉強会の常連になっても、町が大きいので、普段は連絡がつきにくい。その結果、足が地についた運動になりにくい。
もっとも、アドラー心理学が東日本で盛んでないのは、東京の大きさだけではなくて、歴史的な要因がある。私が東京に事務所をかまえたので、これまでの損失は回復できると思うが、まだまだ時間がかかりそうだ。
靴
2002年04月15日(月)
出勤前に、靴屋に寄って靴を買った。社長出勤なので、買い物できるほど遅い時間に家を出てもいいのだ。優雅な生活だろう。普段は山道具屋で買ったウォーキング・シューズを履いている。こういうものを履くようになると、フォーマルな靴はかなわない。足の指がひろがってしまって、先が細くて窮屈でたまらない。それでも、お洒落するとき用の靴はやはり必要なので、そういう靴を探しにいった。むかし、医者をしていくらかお金持ちだったころは、ブランド物の靴を履いていたこともあったけれど、脱医者をしてからは、デパートだの繁華街の高級靴店で買うことはなくなって、大阪は大国町(だいこくちょう)あたりの靴の量販店で買う。今回もそうした。しかし、もう年なんだから、ちょっと無理して、一足くらいもっといい靴を持っていても許されるような気もしている。この次、本の印税が入ったら買ってみようか。
なぜだか、身につけるものを買うのが苦手だ。靴もそうだし、服もそうだ。店に行くまでにずいぶん覚悟がいる。そろそろ夏物を買いにいかないといけないのだが、なかなかふんぎりがつかない。どうして苦手なのか、よくわからない。本だの、食べ物だの、山道具だの、コンピュータ用品だのは、とても喜んで買いに出かけるのにね。身につけるものを買うのが苦手な理由は何なんだろう。
この間読んでいた『ゲイトウエイ』という小説に、コンピュータの精神分析家が出てくる。主人公にフロイト派の精神分析をほどこすのだが、なかなかそれらしい。自由連想をすると、私がなぜ身につけるものを買うのが苦手なのかわかるだろうか。たしかに、長い時間治療者と関係を持っていると、次第にひとつのアイデアが構成されるだろうと思う。しかし、それは、本当の理由ではないだろう。要するに洗脳されたということにすぎないのだと思う。たとえば、古典フロイト派だと、私が身につけるものを買いにいくのが苦手である理由を、エディプス・コンプレックスと関係づけて解釈するだろう。何度もそういう解釈をされている間に、私は洗脳されて、それが本当だと思い込んでしまうだろう。人間の精神は、コミュニケーションの中で作られる。過去の記憶も作られるし、エピソードとエピソードの間の論理的連関も作られる。すべてが人工物なのかもしれない。
解決構成的なストラテジーを使うなら、理由や原因をいっさい知らないままで、治療は可能だ。だから、身につけるものを買うのが苦手じゃなくなるように治療をデザインすれば、その理由を知らなくても、治療はできる。もっとも、私の苦手などどうでもいいことで、治療しなくてもいいのだが、たとえば、どうしても子どもを虐待したくなる母親がいたとして、その人がなぜ子どもを虐待したくなるのかを理解しないままで、子どもを虐待しないでいられるように治療することができる。これは、すばらしくいいことだ。しかし、その人がなぜ子どもを虐待したくなるかの理由を知ることができないということは、なんだかさびしいことであるような気もする。
ま、それはそれとして、明日は、もし雨にならなければ、新しい靴を履いて出勤してみようかなと思っている。買い物は苦手だが、買ったものを着るのは好きなのだ。