丘は地球の岬 野田俊作
丘は地球の岬
2002年04月24日(水)
たしか小松左京の小説だったと思うが、「丘は地球の岬、そこからは宇宙がよく見える」という一節があった。
高校生のころから、丘に登ってボーッと時間をすごすのが好きだった。その時代には、大阪府と奈良県の境にある二上山の低い方の峰、雌岳に登った。今はそこはこんもりとした森の中だが、そのころは伐採直後で、大阪平野と奈良盆地が見渡せた。学校などでいやなことがあると、そこへ行って、寝転がって、麓の物音を聞きながら、空や雲や風景を見ていた。
深山は神々の領域で、穢れた人間のままではそこへは入れない。しかし、丘は神々が人間に貸してくれた場所で、日常のままでそこへ行ってもよくて、そこには適当な量の霊気があって、人間の心身を清めてくれる。なんだか、そんなことを考えている。そういう場所に一日いると、なんだか違うのだ。
丘には霊気がある。だから、丘で「悟り」を開いた話が多い。日蓮聖人もどこかの丘でご来迎を仰いで開悟されたというし、禅籍にも丘で悟った話は多い。たとえば、こんな話だ。
唐代の僧、霊雲志勤は、三十年間修行したが開悟しなかった。あるとき雲水の旅に出たが、山の麓で休息して、はるかに人里を望んだ。ときは春で、桃の花は盛りであった。それをみて忽然として悟った。そこで偈を作って師匠に示した。
三十年間も(川に落とした)剣を(船べりの目印を目当てにして)探していた
何度葉が落ちて、また新芽が生えたことか
桃の花をひとたび見てからは
ひたすら「今ここ」を生きて、疑うことは何もなくなった
三十年来尋剣客
幾回葉落又抽枝
自従一見桃花後
直至如今更不疑
師匠の大為大円は、これを見て、「縁より入る者は永く退失せず」と評した。
今日は、滋賀県近江高島の見張山の中腹に登った。このごろ、そこが気に入っている。そこからは湖と町と街道と鉄道が見える。花の季節は終わったし、今にも雨が降りそうな曇天だったが、それでも宇宙はちゃんと見え、霊気に洗われて帰ってきた。悟りまでは開けなかったがね。
動的平衡
2002年04月25日(木)
私もパートナーさんもかたづけが苦手だ。今日は休日なので、せめて私の分をかたづけておこうと思った。
収納スペースがまずあって、それにあわせて物を買ったり捨てたりしている。流入量と流出量を等しくして、動的平衡を保っているということだ。科学的だろう。それでほぼうまくいっている。
かたづけるべき対象は3類あって、ひとつは本やCDで、ひとつは洋服で、ひとつはおもちゃだ。おもちゃ、すなわち山道具・釣り道具・写真道具については、動的平衡がほぼ保たれている。とくにカメラは優秀だ。写真道具一切を乾燥機のついた収納ケースに入れているのだが、このケースがガラス張りで外から見えるものだから、「ああ、なにか買うとなにか捨てないといけないな」とわかるので、容易に自主規制できる。流入がないので、流出もさせなくてすむ。もし流出させる必要があっても、下取りシステムが完備しているので、捨てないですむ。山道具は、ほとんど物置にあって、これも一望できるので、動的平衡を保ちやすい。ただ、一部、いつも使う低山散歩用のものが、寝室にあるおもちゃ箱の中にある。ナイフとかコンパスとか双眼鏡とかね。しばらくすると、これがあふれてくる。今回は思い切ってずいぶん捨てた。かわいそうなのは釣り道具で、大部分は家を追い出されて、実家に預けてある。渓流釣りの道具だけが家にあって、しかもほとんどは車の中にある。これについては、動的平衡を保つことができなくて、システムが破綻したわけだ。
洋服は、そんなにたくさん持っているわけではないのだが、収納スペースが狭いので、すぐにあふれ出る。特に問題は普段着で、整理箪笥の上に置いておいたりして、見苦しいことかぎりないと、自分でも思う。それもなんとか処理した。外出着については、このごろネクタイをして暮らしているので、かえって量が減って、動的平衡を保ちやすくなった。むかしはカジュアルな服装をしていて、たくさんのバリエーションが必要だった。ネクタイをして暮らすことにすると、上着についてはそんなに種類がいらない。シャツとタイで誤魔化せるからね。
最大の問題は本だ。読んでしまった本を定期的に事務所に持っていって「捨てて」くる。しばらく事務所の本棚に置いておくが、そこもあふれてくると古書市をする。9割引で売るのだ。千円の本が百円だ。捨ててしまうよりはマシな処理法だと思っている。もっとも、ヲタクな本が多いので、あまり売れない。今回も大量に本が出たので、何回かに分けて事務所へ運ばなければならない。そうして、読んでしまった本を「捨てて」いても、流入量が多いのと、もうひとつは「これは手元に置いておきたい」と思ってストックが増えるのとで、システムは常に破綻している。コンピュータ関連のマニュアルとか、山のガイドブックとか、アドラー心理学の基本文献とか、辞書類とか、そういうのだけで本棚がいっぱいになってしまっているし、これ以上本棚を増やすスペースがない。CDも同様で、必要なストックだけで、収納スペースからあふれてしまう。本やCDは「文系」で、自然科学の法則に従わないんだ。仕方がないよ。
子どもが好きな人
2002年04月26日(金)
銀行で行列待ちをしていた。ある女性が機械のほうを向いて作業をしていて、後ろに乳母車がおいてある。その中の子どもがすこしグズった。女性がふりむいてあやそうとすると、いかつい顔の中年のガードマンのおじさんが来て、乳母車をゆすりながらあやしはじめた。子どもは不思議そうな顔をして機嫌を直した。
それを見ながら、「子どもが好きな人に悪い人はいない」という言葉が頭に浮かんだ。すると、この恐い顔のガードマン氏も、実はいい人なんだ。しかし、私は子どもは嫌いだな。「動物が好きな人に悪い人はいない」というが、動物も嫌いだな。なにか好きなものはないかな。「山が好きな人に悪い人はいない」ともいうが、これは嘘だ。山が好きで、しかもひどく悪い奴を知っているもの。「音楽が好きな人に悪い人はいない」ともいうが、これも嘘だ。音楽を好きな大悪人を何人か知っているし、アメリカ映画のマフィアはオペラ・アリアを聴いているし、ナチはワーグナーを聴いているじゃないか。とすると、子どもや動物が嫌いで、山や音楽が好きな私は、悪い人か?
まあ、そうかもしれないが、すこし理屈をこねておこう。「ある人が子どもが好きならば、その人は悪い人ではない」という主張なのだが、「子どもが好きな人」の行動特性と「悪くない人」の行動特性に共通性があって、しかもその共通性は偶然によるものではなく、その背後に共通の構造を持つために起こる必然的なものであるということなのだろう。子どもや動物などを好きだというのは、「弱いものを保護する」という構造なのだろうか。しかして、「悪くない人」の条件のひとつが、「弱者を保護する」ということなのかもしれない。
しかし、「子どもが好き」と「悪い人」との間には、他の構造もありうる。たとえば、子どもの好きな女医さんが小児科医や児童精神科医になって、かえって具合が悪かったというようなことを、何例か見聞きしている。子どもがあまり好きじゃないと、いつも冷静でいられる。しかし、子どもが好きな医者は、ときとして理性を失ってしまって、「鬼手仏心」じゃなくなってしまう。冷たいほうがかえって患者のためになることもあるのだ。だとすると、「子どもが好きな医者は、いい子ども医者じゃない」という主張だって成り立ちそうに思う。つまり、「子どもが好き」ということは「理性を失いやすい」という構造をもっているかもしれないということだ。
私も子どもが好きじゃないが、うちのパートナーさんも子ども嫌いだ。もっとも、二人とも、思春期の子どもは好きなのだが、ここで子どもといっているのは、乳幼児ないし小学校低学年の子どものことだ。ともあれ、彼女は子どもは好きじゃないが、とてもよい児童カウンセラーだ。私がいい思春期精神科医であるかどうかはわからないが、そうでありたいと思っている。子どもが嫌いだからって、悪い治療者になるとはかぎらないと思う。冷静さは、いい治療者の重要な条件なんだ。
…どうも自己弁護くさいな。