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スレッドNo.899

子どもが好きな人(2)    野田俊作

子どもが好きな人(2)
2002年04月27日(土)

 私もパートナーさんも乳幼児は嫌いだが、ちゃんと言葉が通じるようになった子どもは好きだ。ものを教えられるからじゃないかと思う。子どもにであれ大人にであれ、ものを教えるのは大好きだ。だから、こんな商売をしている。
 一昨日、釣り番組を見ていたら、子どもに釣りを教える場面があった。それを見て刺激されて、パートナーさんの娘に「男の子を産んでね」と頼んだ。「釣りを教えようとしているな」と言われた。「山登りもね」と答えた。5月2日から、沖縄県与那国島へ友人たちと一緒に出かけるのだが、もうすぐ3歳になる男の子も来る。悪いことをいっぱい教えちゃおうと思っている。ものを学ぶ年齢になった子どもは好きなのだ。
 乳幼児を好きな人は、教えるとかいうことじゃなくて、接触をもつことそのものが好きみたいだ。そういうのを世間では「やさしい」と言うだろうし、また「いい人」だとも言うだろう。そういう人も必要なんだが、接触ではなくて、知識や技術の伝達に興味を持つ人も、この世には必要なんだよ。そういう人を、よく言えば「面倒見がいい」という。私も面倒見のいい人だと、自分で思う。やさしくないけれどね。
 接触するのが好きなのと、教えるのが好きなのとは、ある程度排他的みたいだ。アドラー心理学では、対人関係重視型と課題達成重視型という。詳しいことは省くが、私もパートナーさんも課題達成重視型で、ベタベタするのが嫌いできわめて「そっけない」対人関係を作るが、とても「ていねいに」人の世話をする。
 教えるだけじゃなくて、自分が持っている知識や技術でもって人を援助するのも好きだ。この前、あるスタッフに着信メロディを作ってあげたことを書いたが(04/01)、彼女を好きだから作ってあげたわけではなく、音楽を作るのが好きだから作ったのだ。もちろん、彼女を嫌いなわけじゃないよ。人を好きでも嫌いでも、作業が好きならしてあげる、ということだ。相手が誰かよりは、作業がなにかでもって、行動が決まる。
 結論。子どもが嫌いでもいい人はいる。ただし、子どもが好きないい人とは、「いい人」という言葉の意味がちょっと違う。やさしくないけれど、面倒見がいいんだ。



自己一致
2002年04月28日(日)

 阿蘇山にある施設でサイコドラマ(心理劇)のワークショップをしている。その中で、「ある人が『あなた、私をバカにしているの?』と言うので、困っている」というような話が出た。それを芝居に仕立てて、その人のもの言いや態度を観察すると、なるほど相手をバカにしているように見える。しかし、言葉ではそれを隠して、いかにも親切な言い方をしている。そこで、「うんと相手をバカにしているようにふるまってみてください」と指示してみる。すると、相手は、それほど腹を立てない。口先だけ親切そうに言っているとき、かえって相手は怒ってしまう。だから、答えは、相手をバカにしていることを認め、さらにそれを言葉で表せばいいんだ。
 しかし、これってアドラー心理学の教えに反していないか?人を尊敬し、信頼してつきあわなければならないと、アドラーは教えている。そうだね、ほんとうにそうだ。そうできればそれに越したことはない。問題は、そうできないとき、どうするかだ。いかにも相手を尊敬しているかのような言い回しをし、しかも心の中で軽蔑しているのは、二重にバカにしているように思う。それよりは、心と口を一致させてしまったほうが、まだ相手を尊敬しているにやや近い。ロジャーズが言うところの「自己一致」だな(正確に言うと、感情から考えはじめるロジャーズと、信念から考えはじめるアドラーとでは、違うことを考えているのだが、まあ細かいことはよろしい)。
 アドラー心理学を間違って解釈している人たちは、ここのところがわかっていなくて、心のほうは放っておいて、相手を尊敬しているかのように聞こえる口先の技を教える。だから臨床心理学は「偽善者養成講座」だって言われてしまうんだ。
 理想として「人を尊敬しなければならない」と思い、現実に「相手を尊敬できていない」ことを認識し、しかも嘘をつかないで暮らしたい。そうなると、相手を尊敬できていないことは表現することにして、それを具体的にはどう表現するかを工夫する方が、より誠実な生き方であるように思うのだ。いいことじゃないんだけれど、「口先アドラー」よりはずっとマシだと思う。



阿蘇も雲仙も九州だろ
2002年04月29日(月)

 まだ阿蘇にいる。外輪山の中にある施設で、広大な草原のはずれ、中岳や高岳がすぐそこに臨める場所にある。残念ながら、山頂はいつも雲の中だ。
 阿蘇にはたくさんの詩があって、たとえば三好達治の「艸千里浜」という、ちょっと人麻呂の長歌みたいな雰囲気の詩が有名だが、三好達治という詩人は、私はどうも体質的に好きになれない。「絵ハガキ写真」みたいなんだ。たしかによく撮れているけれど、あまりにも傍観者的すぎると思う。
 思い出していたのは、伊東静雄の「なれとわれ」という詩で、これはけっして模範的な詩じゃないけれど、とても美しいと思う。しかしよく考えると、これは阿蘇の詩ではなくて、雲仙の詩じゃないか。まあいいだろう、同じ九州なんだから(ごめんね、九州の人。アバウトな認識で)。

新妻にして見すべかりし
わがふるさとに
汝(なれ)を伴ひけふ来れば
十歳を経たり

いまははや 汝(な)が傍らの
童さび愛(かな)しきものに
わが指さしていふ
なつかしき山と河の名

走り出る吾子に後れて
夏草の道往く なれとわれ
歳月は過ぎてののちに
ただ老の思に似たり

 パートナーさんと知り合って、もうすぐ20年になる。前に結婚していたのが13年だから、それよりも長くなった。このごろ「歳月は過ぎてののちに/ただ老の思に似たり」と、ちょっと思うようになった。伊東静雄が言うのは、嫌悪していた故郷(諫早)を、妻や子の存在を介して、許せるようになったことだと思うが、私は故郷を嫌悪していないので、違う種類のことを思っている。それにしても、年をとって、若いころとは違った感覚で世界を見ることができるようになったことを喜んでいる。

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