論語でジャーナル
18,子曰く、君子、義以て質と為し、礼以てこれを行い、孫(そん)以てこれを(い)出だし、信以てこれを成す。君子なるかな。
先生が言われた。「正義をもって内的本質とし、礼に従って実行し、謙遜な言葉で表現し、信義をたがえないことによって物事を成し遂げる。このような人こそまことの君子というものだね」。
※浩→君子の持つ資質や特徴として、「正義・礼容・謙譲・信義」の4点を挙げています。ここの「孫」は「遜」で「謙遜」のことです。「出だす」は古注では「言葉に出だす」で、新注では「表現する」となっています。吉川・貝塚両先生は、新注を採用されています。確かにこのほうがわかりやすいです。
もっとくだくと、「正義を心に、礼儀正しく、謙虚に、忠実に」ということになるでしょうか。これらの徳目は、日本人好みのようで、人名に多用されています、「正義」はそのまま「まさよし」、「礼」は「礼子」、「謙譲」の「謙」は「謙一、謙二、謙次、謙治、謙造、……」、「信義」はそのまま「のぶよし」に。「信」を漢和辞典で調べると、一番目の意味は「まこと。真実。言行が一致する」とあります。「信義」と熟語になると、「約束を守り義務に従う」とあって、「義」は「義務」だとわかります。ついでに調べると、「正義」は「正しい道理」とありました。ここでは「義」が「道理」になっています。「正しい意味」とあるのは「義」を「定義」のことだと読んでいるようです。これは道徳とは関係ないです。「礼儀」「謙譲」「信義」については、まず誤解のおそれはないようですが、「正義」をめぐっては気をつけないと、トラブルのもとになりそうです。「正義感が強い」というと美徳でしょうが、自分の正義と相手の正義とが同じだとは限りません。野田先生は、歴史上、人々の死亡原因のトップが「正義のための死」だとおっしゃっていました。個人間では、互いに正義を主張して相交われないと喧嘩になるし、国家間では戦争になります。正義というのはまことに主観的で、古今東西、人類に戦争が絶えなかったのは、この「正義」のたでした。過ぐる9月11日はあの悲惨な「同時多発テロ」の日でした。被害を受けた方々の心情を察してあまりあるものがあります。非難されるかもしれませんが、理屈の上では、加害者側にも彼らなりの「正義」があったのでしょう。目標はともかくも、手段があまりにも破壊的で有害で、決して容認できるものではありません。今はまさに、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスが互いに正義を主張して戦争しています。人類の精神年齢は、もう少し成長しないといけません。
アドラー心理学は価値相対主義の立場をとります。人が言うところの「正義」は、決して絶対的・客観的な宇宙の真理ではない。「その人なりの真理である」と考えると、相手を受容する気持ちが生じて、「謙虚」になれます。「相手には相手の都合もある」と考えると、やたら自己主張することをコントロールできそうです。私は子どものころ、悪戯などすると、親に「相手の身になってみろ」と叱られました。
「正義」が「正しい意味・定義」という意味であることも知ったついでに、「正義」の内容は主観的でも、哲学者はどう説明しているでしょうか?プラトンは「四元徳」といって、「知恵」「勇気」「節制」「正義」を挙げました。これは、「気概」と「欲望」という2頭の暴れ馬を、「知恵」がきちんとコントロールして、馬車が調和ある走行ができるという意味で、その「調和」が「正義」でした。アリストテレスはさらに詳しく、人間の「徳」を「知性的徳」と「習性的(倫理的)徳」に二分し、「知性的徳」は「知恵」と「思慮」からなり、「習性的(倫理的)徳」は、欲望や感情が「思慮」に導かれて「中庸」を行うことだと説きました。例えば、「臆病」と「暴勇」の中庸が「勇気」で、「無欲」と「貪欲」の中庸が「節制」です。あと、たくさんの「習性的(倫理的)徳」があるなかで、「正義」と「友愛」が最も大事だと言いました。ポリスの市民としてのあるべき生き方を説くのは、ソクラテス以来の伝統です。心しておきたいのは、「正義」は大切だが、「正義」の人にも「友愛」は必要、「友愛」の人にはあえて「正義」を言う必要はない。なぜなら「愛する人のために人は不正をしないからである」ということです。長くなりましたのでこのへんで。