盆踊り 野田俊作
盆踊り
2002年08月09日(金)
スタッフと飲みに行って、いい機嫌で帰路につき、いつも降りる駅のひとつ前の駅で降りた。古書店があるので、いい本が入っているかもしれないと思ったのだ。しかし、たいしたものはなくて、そのまま一駅歩いて帰ることにした。途中にある公園で盆踊りをしていた。河内音頭の「駒形茂兵衛」の「口説き」みたいだ。「一本刀土俵入」というほうがわかるかもしれない。「口説き」というのは、物語になっている歌だ。
こういう音楽は、もう通じなくなっているんじゃないか。若い人は、なんのことかわからないだろう。私の世代の人々だって、よくわからないかもしれない。私の場合は、祖母が芝居好きで、歌舞伎だの新国劇だの松竹新喜劇だのをしょっちゅう見にいっていて、ときどき子どもだった私を連れていったものだから、それで知っている。しかし、そういうことのない人は、国定忠治くらいはわかっても、駒形茂兵衛になるとわからないかもしれない。
そのむかし、映画もなくテレビもなかった時代、人々は盆踊りで口説きを聞くのを待ち望んでいたと思う。とてつもなく贅沢な娯楽だったんだろう。時代が変わって、もうだれも口説きを待っていない。けれど、歌だけはそのまま残って、聴衆と遊離したところで歌われている。つまり、河内音頭も古典芸能化したということだ。
しかし、どうして駒形茂兵衛なんだろう。セリフの部分が、大阪弁じゃ締まらないので、標準語的ヤクザ言葉だ。あれじゃ、河内音頭じゃなくて、八木節の口説きみたいだ。次弟が、どこで習ったのか、「八尾の浅吉」(これも勝新太郎「悪名」というほうが通りがいいか)の口説きの一節を歌えたりするのだが、あれだと河内弁丸出しなので、いかにも河内音頭らしいのだが。まあ、それにしても、誰も待ち望んでいないのだが。
もう一世代すると、河内音頭の口説きで盆踊りをすることはなくなって、土地とは何のゆかりもない東京音頭かなにか、あるいは歌謡曲かな、そういうもので踊るようになるのだろう。いや、そもそも、盆踊りそのものが消滅するのかもしれない。まあ、それはそれでいいのだろう。もともと盆踊りは念仏踊りで、死者との交感のための霊降し・霊送りの踊りだったのだと思うが、やがて宗教性を失って娯楽となり、そしていまは娯楽性を失ってたんなる惰性になっている。いつまでも続けるのは、町内会の負担が大きいだけのことで、あまり意味がないのかもしれない。そうでもないのかな。盆踊りで恋が生まれたりなんて、いまでもするんだろうか。
メリー・ウィドウ
2002年08月10日(土)
『メリー・ウィドウ』のDVDを見た。ジュネーブ大歌劇場で、アルマン・ジョルダンが指揮し、アンヌ・ホーウェルが未亡人ミシア・パリミエリ夫人(原作ではハンナ・グラヴァリ夫人だが、この上映では名前が変わっている。フランス語での上演なので、ドイツ語からの翻訳時に名前を変えたのだそうだ。オペレッタってこういうもので、適当なんだ)、ミカエル・メルビが相手役ダニロ伯爵をやっている。むかし、1982年に、ウィーンで開催された国際アドラー心理学会に参加したことがあって、このオペレッタを見にいった。そのときのことが、なつかしく思い出された。
話はとてもバカげている。舞台はパリ。ミシアは東欧の小国マルソヴィ(原作ではポンテヴェドロという国だが、これまた名前が変わっている)の大金持ちと結婚したが、夫はすぐに死んでしまって、莫大な財産を相続した。マルソヴィは財政状態が悪いので、ミシアを他国の男性と結婚させたくない。財産が国外に持ち出されてしまうからだ。そこで、公使ポポフは、部下の外交官ダニロに、ミシアに結婚を申し込むように強制する。ダニロはミシアのことを愛しているのだが、財産目当てだと思われるのがいやで、けっして「愛している」とは口に出さない。ミシアもダニロを愛しているのだが、ダニロが「愛している」と言わないので、どうしようもない。そこから恋の駆け引きが3幕も続いて、最後はお定まりのハッピーエンドだ。
オペラであれオペレッタであれ、大切なのは音楽であってストーリーではない。『メリー・ウィドウ』はウィンナ・ワルツでいっぱいだ。ヨハン・シュトラウスよりも一世代後の、19世紀末から20世紀初頭の、爛熟し退廃したウィーンの香りがする。おそろしく耳につく音楽だ。見終わってからもずっと耳の中で鳴っていて、うるさくて仕方がなかった。家族がテレビをつけて、他の音楽が聞こえて、はじめて消えていった。