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スレッドNo.93

論語でジャーナル

4,子(し)、武城に之(ゆ)きて絃歌(げんか)の声を聞く。夫子(ふうし)莞爾(かんじ)として笑いて曰く、鷄を割くに焉(いずく)んぞ牛刀を用いん。子游対(こた)えて曰く、昔者(むかし)偃(えん)や諸(これ)を夫子に聞けり、曰く、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易しと。子曰く、二三子(にさんし)よ、偃の言是(ぜ)なり。前言はこれに戯(たわむ)れしのみ。

 先生が武城に行かれると、弦楽器の伴奏に合わせた歌が聞こえてきた。先生がにっこりと笑って言われた。「鶏をさばくのに、どうして大きな牛切り包丁を使うのだろうか?」。武城の城主・子游が申しあげた。「私は過去に先生からお聞きしまたことがあります。『君子が道を学ぶと民を愛すようになる。小人が道を学ぶと扱いやすくなる』と。先生は弟子たちをふり返って言われた。「諸君。子游の言うとおりだ。さっきの言葉は冗談だよ」。

※浩→「武城」は山東省費県にあたります。魯の都・曲阜から東南の辺境地です。この時代には、長江流域の新興覇者・呉、さらに少し遅れて越が北進してくる交通路で、魯の南方の重要な場所でした。孔子の弟子の子游(言偃)はそこの市長でした。
 当時、「詩」は琴や簫(しょう)や鐘などの絃管打楽器の合奏を伴って歌われましたが、略式には琴(絃)の伴奏だけでした。孔子の学園でも琴の伴奏で詩を学習していたそうです。子游はこの小さい町においても、弦楽器を伴奏にしてコーラスをしていたのが、孔子の耳に入りました。それで、「小さな鶏を割くのに屠牛用の刀を用いる=小さな町に正式の礼楽の教育をする、とは大袈裟だね、と言ったのです。孔子ともあろう人が、子游をからかったのです。それに対して、子游が真っ正面から返答したので、孔子は前言を取り消さざるをえなかったのです。『論語』には、このような孔子の失敗談まで載っています。孔子は決して過失のない神のような存在ではなく、過ちも行ないかねない人間として書かれています。「過てば則ち改むるに憚ることなかれ」という自らの言葉を自ら実践しています。
 昔、三代目市川猿之助さんがまだ30歳台で、「伊達の十役」や「獨道中五十三驛(ひとりたびごじゅうさんつぎ)」や「天竺徳兵衛新噺(てんじくとくべえいまようばなし)」などの“何役もの早変わり芝居”に大奮闘していたころ、歌舞伎界の大御所・人間国宝の三代目中村鴈治郎さんが脇役・助っ人として必ず共演されていました。例えば、「伊達の十役」では悪役の代表・「御殿の場」の八汐(やしお)と、大詰めの舞踊の大団円で登場して「あっぱれ、あっぱれ」と馬上で扇を広げて見栄を切る役とかです。八汐が乳母・政岡の一子・千松をなぶり殺しにするシーンは、その悪人ぶりが圧巻でした。人間国宝が、まあ、政岡は別として、“ちょい役”を全力投球で演じる姿に感動したものです。不肖・私も自ら講演などをする身ではありましたが、他の人が主役の場でお手伝いをするときは、助っ人に徹します。この鴈治郎さんの姿勢をモデルにしています。
 カウンセリングでは、高校生の息子が進級が危なくて不安だということで、2学期末から相談に見えたお母さんのケースを思い出します。「事例検討会」(大阪アドラーギルド)で野田先生からアドバイスをいただきました。「この状況で客観世界には何も問題はない。あるのはお母さんの心の中の不安だけです。しかも学年末の進級判定が出るまでという期限つきです。それならば、その不安な期間の間、しっかりお母さんの愚痴や不安をしっかり聞いてあげて、しっかり寄り添い続けてあげることが、カウンセラーであるあなたの仕事です」と。そこで、私は「まるでロジャース派のようですね」と言いました。野田先生は、「(ロジャース派に申し訳ありませんが)ロジャース派はあれしかできないけど、アドラー派はこういうこと“も”できるんです」とおっしゃいました。そのとおりに行なって、3月の進級判定会議で「留年」が決まると、そのお母さんはきちんと納得されて、終結を向かえました。今もこのケースをときどき参考にしています。

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