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スレッドNo.947

原稿を書く    野田俊作

原稿を書く
2002年09月18日(水)

 頼まれた原稿があって、朝から書き始めて、午後6時ごろには予定枚数の25枚書いてしまった。頭の中にある話を文字にするだけなので、そう時間はかからない。『アマデウス』という映画の最後のほうで、病身のモーツァルトが『レクイエム』を口述し、サリエリが楽譜に写す場面があったが、音楽はともかく、論文だったら、あれに近いことができないことはない。もっとも、全部書きあがってから、もう一度ていねいに見なおさないと、あちこち気に入らないところがあるのだが。そういうわけで、明日は見なおし作業をする。
 やっかいなのは、引用文献だ。あるアイデアがどこに書いてあったのかを思い出さなければならない。アドラーの言葉の場合は、Ansbacher and Ansbacher: "The Individual Psychology of Alfred Adler" (Harper)というきわめて便利な本があるので、それを見れば簡単に出典がわかる。アドラー以外の学者の検索がやっかいだ。単行本の場合はまだいいが、雑誌に掲載された論文の場合は、膨大なバックナンバーを探し回らないといけない。大学にいると、文献検索がコンピュータ化されていて便利なんだろうが、私の場合は手検索なので、ずいぶん時間がかかる。重要な語句の出典を自分でデータベースにしておくと便利だろうなと、論文を書いているときは思うのだが、終わるとすっかり忘れてしまう。
 ベートーベンの弟子にチェルニーという作曲家がいて、例の教則本を書いた人だが、思いついた旋律の断片を五線紙に書いて引き出しの中にしまっておき、曲の注文があると、それらの断片をつなぎ合わせて一曲にしたんだそうだ。才能のない音楽家の見本として持ち出される話なんだけれど、でも、結構それも手間だったと思うよ。自分用データベースを作るという、私には絶対にできない作業だもの。私の場合は、ある日「えいっ!」と1文字目から書き始めて、一気に何十枚か書いて、後からそれを補填する、というやり方でしか原稿が書けない。おかげで、原稿を書いていない時間は遊びまわれるのだが。



原稿を書く(2)
2002年09月19日(木)

 昨日書いた論文に、アドラー自身の言葉をちりばめて格好よくしようと思って、あれこれ書き足したら、規定の枚数をはるかにオーバーしてしまった。自分の書いたところを削らなければ。無理にアドラーの言葉を引用する必要はないのだけれど、私の考えじゃなくて、「アドラーもちゃんと同じことを言っているでしょ」、ということを強調したいのだ。どうも、私が独創的にものを言っていると思い込んでいる人がいる。そんなことはないんだよ、アドラー心理学なんて古典芸能みたいなもので、ひとつひとつのアイデアに、いちいちちゃんと典拠があるんだ。
 ま、それはそれとして、あるテーマについてアドラーがどう言っていたかは、昨日紹介した Ansbacher and Ansbacher: "The Individual Psychology of Alfred Adler" (Harper) という本にあたればいいのだが、同時にこれのドイツ語版 Ansbacher and Ansbacher: "Alfred Adlers Individualpsychologie" (Reinhardt) にもあたっておかなければならない。というのは、英訳がひどくて、ドイツ語の原文を見ておかないと、ひどく意味が違うことがあるのだ。たとえば、Seele という単語を soul と訳してあったりする。Seele というのは、単に「心」という意味だが、soul は宗教的な意味での「魂」だ。アドラー心理学は魂は取り扱わない。そういういいかげんな訳語がいっぱいある。単語だけでなく、文章も、意訳がひどすぎて、原意とまったく違っていたりするのだ。ぶつぶつ言いながら、ひさしぶりにドイツ語を読んでいる。
 こういう機会でもないと、アドラーの原典を読むことはないので、総説的な論文を割り振ってもらうのはうれしい。原典を読んでみると、ふだん考えてわからなかったことが、すでに80年ほども前にアドラーが答えていたりする。賢い人なんだね。締め切りまでにまだ日にちがあるので、のんびりしてしまっている。あまり早く書き始めると、こんなことだ。



コーンスープ原理
2002年09月20日(金)

 金曜日の夜はケース・カンファレンスをしているが、私はめったに出ない。出ると、とんでもないことを言ってみんなを驚ろかせるので、自粛しているのだ。しかし、ふと気が向いて、終わりのころに出た。そうすると、こんな話だった。

 事例提示者は、初心者のカウンセラーだ。境界例人格障害と思われる娘さんがいて、その母親からしつこく娘のカウンセリングをしてくれと言われ、一度会った。しかし、手に負えそうにない感じがした。その後も、娘と会ってくれと母親が言う。いくら断っても聞き入れず、「先生と会ってから、あの子は機嫌がいいんです」と言って、面接予約をせがむ。なんとか断りたいとカウンセラーは言う。

 そこで私は、こんな話をした。開業している精神科医の息子が医学部を出てから5年間の教育分析を受け、どうやら一人前になった。息子は両親に、「お父さん、お母さん、おかげで一人前になれました。クリニックの代診をしておきますから、ヨーロッパにでも旅行に行ったらどうですか」。両親は喜んで2週間の旅行に出かけた。帰ってくると、息子が、「お父さん、喜んでください。お父さんが20年以上も診られていたS夫人は治りましたよ。15年ほども診られているK氏も治りました。その他にも、たくさんの患者さんが、この2週間の間に治りましたよ」。父親は激怒して言った。「誰がお前の授業料を払ってくれたと思っているんだ」。
 治らないのに根気よく面接に来てくれるクライエントを何人かかかえておくのは、経済的にはとてもよいことだ。だから、『治さない治療』というものを身につけないといけない。これについても話がある。病院勤務の精神科医と心理士が職員食堂へ行った。昼食のメニューにコーンスープがあったのだが、コーンが入っていない。「コーンがないのにコーンスープとはこれいかに?」と心理士が聞くと、「治さないのに治療というがごとし」と精神科医が答えた。以来これを、『コーンスープ原理』という。これはまじめな心理学専門誌に書いてあった。
 この話は、半分は冗談で半分は本気だ。カウンセリングは、クライエントのニードに沿って援助するのだが、それはかならずしも病気を治すということではない。上述の事例では、母親のニードは娘の機嫌をよくしてほしいことで、娘の病気を治してほしいとは言っていない。娘もカウンセラーに会う気はあるようだが、問題行動を除去してほしいとは望んでいないようだ。だったら、コーンスープ原理しかないぜ。

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