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スレッドNo.979

文脈依存    野田俊作

文脈依存
2002年11月11日(月)

 昨日のことなのだが、ある人が「アドラー心理学で『失敗から学ぶ』というが、これがうまくできなくて、何度失敗しても、同じ間違いをしてしまうが、どうすればよいか」というような質問をした。私は、「『失敗から学ぶ』という言葉には文脈がある。その文脈を離れたところでその言葉を使うのはどうかと思う」と答えた。
 「失敗から学ぶ」という言葉は、私が作った『パセージ』という育児プログラムの中に出てくるのだが、そこでは、「適切な行動/不適切な行動/失敗」という三つ組の概念が出てくる。このうち、不適切な行動に対しては、アドラー心理学は「注目を与えない」という対処法しか教えない。しかし失敗に対しては、積極的に「勇気づける」ことを教える。そこで、不適切な行動だと思われるものを、なるべく失敗だと分類して、積極的な対処法を考えたほうがよいと勧める。
 次に、『パセージ』によれば(「アドラー心理学によれば」ではない!)「勇気づける」には、「適切な行動に注目する」ことと「結末を体験してもらう」ことの2つのやり方がある。失敗に対しても、適切な側面を見つけだして注目することができる。たとえば、自分でミルクをコップに入れようとしてこぼしてしまった子どもに対して、「自分でやろうとして、すてきだね」と言ってあげることができる。また、結末を体験してもらうこともできる。たとえば「こぼれてしまったけれど、どうすればいいと思う?」というのは、結末について話し合おうとしているわけだ。
 「失敗から学ぶ」というのは、この文脈の中で語られている言葉だ。すなわち、子どもが失敗したとき、親がどう行動すれば、子どもが失敗から最大限に教訓を引き出してくれるか、ということについて言っている。それを、自分が失敗したことに応用しようとするのは、定義域を越えて使っているので、不当な使いかただ。
 同じような不当な意味拡張はたくさんある。私は名言(迷言)家みたいで、いろんなフレーズを思いつく。たとえば「しあわせは心こもらぬ言葉から」と言ったことがある。これは、横暴な上司に悩む部下(おー、児玉先生のことだ)の相談の中で、その上司がおべんちゃらを言うと機嫌がよくなって風当たりが弱くなるということがわかり、それで「じゃあ、別に心は込めなくていいから、上司の喜ぶ言葉をかけませんか」と言って、それだけでは愛想がないので、ハガキにベッカンコしている観音様の絵を書いて、その側に「しあわせは心こもらぬ言葉から」と書いてあげた。この言葉は、だから、「仕事の関係」というのが定義域だ。これを夫婦関係や親子関係に拡張するのは危険だと思う。
 人々は、しかし、単語や文の意味が文脈に依存して決まるとは思わないようで、とんでもない応用をしてくれる。その結果、人間関係がかえって冷たくなったり、問題解決からかえって遠ざかったり、よくない効果が出ているように思う。もちろん「失敗から学ぶ」だの「しあわせは心こもらぬ言葉から」だのと言った私にも責任がないではないが、やはり間違って使った人の責任の方が大きいと思う。これは責任逃れかな?

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