息子の友だちのお母さんをアドラーに…
Q
小学校4年生の男の子がいます。仲良しの男の子と塾へ行っていますが、2人とも気分的には勉強が嫌いで、いつでもやめたいと思っている。お友だちのお母さんが普通のお母さんで、アドラーママじゃないので…
Aそうか、アドラーは普通じゃないのか(笑)。
Q「勉強はちっともしないんだから、塾は絶対やめてはダメ」とその子が言われているので、うちの息子も彼につきあって毎週通っています。2人ともブツブツ言いながら通っています。その子の母親をアドラーに改造するのは良くないでしょうか。
A
いいことなんですが改造されないでしょうね、きっと。日本中のお母さんをアドラーに改造したいものだと私は思っているんだけど、こっちは思っているけど向こうはそういう商品を買わないでしょう。
押し売りすると結局ダメみたいです。私は押し売りしたことはない。学校の先生なんかが変にカウンセリングを勉強するんですよ。私は先生がカウンセリングを勉強するのを反対しようかと思っている。先生が、望んでもいないお母さんに学んだことを押しつけるでしょう。そうすると、お母さんはいっそう意固地になるか、先生に脅されてその方向で行ったら、かえって中途半端な育児になって具合が悪い。「アドラーを今学んでおかないと、息子さんは将来非行少年になるか精神病者になるでしょう」と、押し売りすれば売れるでしょうが、そいういう姿勢で学ばれても身につかないと思うし、身についても中途半端な変なところだけ身について、変な母親になるだろうと思う。
子どもを殴る親がいます。その人が変に心理学を勉強すると、殴ろうと思ったとき心理学が止めるんです。「子どもを殴ってはいけない」。子どものほうは、「さあ殴られる」と思ったらお母さんは止まっている。すごく不気味です。「なんで止まってるんだろう」。その母親は、昔、子どもを殴った母親よりも子どもにとってはもっと扱いにくい。それだったら、いっそ気前よく殴ってくれるほうがいい(笑)。徹底してアドラーをやって子どもを罰するのを全部やめるのがベストです。その次にいいのは、子どもを殴っている母親。殴るのやら殴らんのやらわからん中途半端で止まっているとか、時には殴りときには殴らないとか、殴ろうとして止まって、怒りながら口先だけ「ごめんね」と言うとか、そういうややこしいコミュニケーションはやめてほしい。
もしもどうしてもアドラーの宣伝をしたかったら、お宅の坊ちゃんとしっかりつきあうしか手がない。ブツブツ言いながらでも塾へ行っているとか、友だちが行っているなら僕も一緒に行ってあげるというのはいいことだと思う。
アドラー心理学は、子どもを快適な環境で暮らさせようと(だけ)は思っていない。一生にはつらいことがいっぱいある。子どもたちを快適な環境で暮らさせたら、つらいことを乗り越える力がなくなる。塾がイヤで学校がイヤで先生が嫌いというのは、子どもを鍛えて強くするいいチャンスでしょう。この子どもはそれに耐えてくれているから、耐えてくれていることに対して勇気づけしたい。「嫌いなのに毎日よく行くね。感心しちゃう」と言ってあげたい。「あなたを見ていると頼もしいし、誇りに思う」と言ってあげたい。そうすると子どもは「そうか」と思って、もう少し気軽に塾へ行くでしょう。
そうやって子どもとの関係がほんとの意味で良くなっていけば、そのお友だちのお母さんも聞きに来るかもしれない。「あんたとこうまいこと躾けているね。どうしているの?」。そしたら「実はね…」と教えてあげる。実績を見せないといけない。口先だけでアドラーを言ってても、まだ自分の息子とちゃんとアドラーでつきあってないと思う。
『スポック博士の育児書』とか「親業」は、アドラー心理学と違って、子どもを楽にしてやろうと思っています。アドラー心理学ももちろん苦しめようと思っているわけではない。思わなくてもこの世にはつらいこと苦しいことがいっぱいある。昨日まで幸せに暮らしていたのに、突然地震や大雨が来てみんな潰れる世の中です。そのとき、人間のほうが潰れるか潰れないかは人間の強さによる。今までつらい目に全然遭ってこなかった人は潰れるでしょう。
赤ちゃんをつらい目に遭わせないために保育器で育てるとします。快適な温度で、お腹がすいたらミルクが出てくる。おしめが濡れたらすぐロボットが取り替えてくれる。何にも苦労しないで20歳まで育てたら、植物人間です。何にもできない人になっている。
赤ちゃんの状況は(実は)つらいんです。自分でおしめを替えられない。自分でお腹いっぱいにならない。何とか大きくなってお父さんやお母さんみたいに歩けて、自分でご飯を食べられて、自分でトイレへ行けるようになりたいものだと願う。つまり劣等感がある。その劣等感を克服する力で賢くなっていく。子どもを快適にすると、劣等感が小さくなって克服しなくていいから成長しない。
今、塾へ行くのは大変だと思うけど、子どもが成長するチャンスで、たくさん勇気づけたい。お勉強も大事だけど、友だちと一緒にいる力はすごく大事です。友だちがつらいときに一緒につらい目に遭ってあげるのが本当の友だちでしょう。雨の日の友だちが本当の友だちね(浩→A friend in need is a friend indeed)。晴れていて天気のいいときは誰でも仲良く一緒にいられる。つらくなったときに一緒にいないと何にもならない。
遠藤周作の『沈黙』という怖い小説があります。読まないほうがいいよ。夜、寝られなくなるから。キリシタン迫害の話です。キリシタンの男が出てくるが、この人は心が弱い人で、ポルトガル人の神父を何度も何度も裏切るんです。「俺だってキリシタンが認められて迫害されていないときだったらいい信者でいられて天国へ行けた。今みたいに迫害されているから裏切らないとしょうがない」。国が認めているときにキリスト教徒でいる人は、ほんとのキリスト教徒かどうかわからない。キリスト教徒でいるか死ぬかどっちか選ぶ。生き残りたかったらキリスト教をやめる、キリスト教をやるなら死ぬという状況でキリスト教徒なら本物です。
友だちが苦しいときに、自分だけが逃げ出して楽しようというのは友だちじゃない。「あなたはすごくいい友だちだし、すごく尊敬できる」と言ってあげないといけない。
子どもがどれだけちゃんと大人になれるかは、勇気づけの力による。勇気づけとほめるのと違うのは、子どもがつらがっているとき勇気づけできる。そのときこそ勇気づけしないといけない。子どもが喜んでいるときはしなくていい。もうそのことで勇気づけられているから。点数が悪かったとか、お勉強が嫌いなのにやっているとか、子どもの気分が悪いときは勇気づけする。これはまさに勇気づけする場面です。(野田俊作)