言葉使い 野田俊作
三回忌
2002年11月28日(木)
父の三回忌で親戚が集まった。早いもので、もう2年になるんだ。若いころには存在感のある親父だったが、晩年は好きなことをして仙人のように飄々として生きていたので、亡くなってもあまり喪失感がない。焚火の火がだんだん細くなって、いつしかフッと消えたようなものだ。
いつも来る和尚が、葬式が入ったとかで、その息子の若和尚が来た。はりきっているのか、お説教をするという。いつもはそんなのはないぜ。参ったね。浄土宗なので、「南無阿弥陀仏」のお話で、「南無というのは『おまかせする』という意味で、仏様にすべておまかせして、現状に不満を言わないということです」と言う。おいおい、ゴータマちゃんの遺言は、「すべてのものは移りゆく。おこたらず努めよ」なんだぜ。現状に満足したんじゃ仏教徒じゃないと思う。法然上人がおっしゃる他力本願だって、現状に満足するってことではないと思うな。……とまあ思ったが、檀家が坊さんに反論するわけにもいかないので、「はあはあ」と聞いていた。
法事が終わって食事をしながら、弟だの従妹だのの話題は、やれ心臓が悪いの、一過性脳虚血発作があって通院しているだのと、シケた話題ばかりだ。あんた方、私よりも若いんだぜ。むしろ母や叔母さんたちの方が元気だ。戦争中に子ども時代を送った人々は、粗食のおかげでかえって健康なのかもしれない。
高知の酒宴
2002年11月29日(金)
夕方高知に着いて、さっそく酒宴だ。もっとも私はほとんど飲まない。まったく飲まないのも愛想がなさすぎるので、日本酒を杯に3杯だけいただいた。高知の人々は、もちろん、浴びるように飲む。人が酩酊してゆく過程をシラフで見ているのは、私にとってはおそらくはじめての体験で、とても興味深かった。
いつもは、同じ調子で浴びるほど飲む。全国を旅して暮らしているが、二日酔いになるのは高知と沖縄くらいだ。飲む量の桁が違う。しかし、飲まないでもつきあえることがわかった。これは収穫かもしれない。
高知の料理はおいしい。高知駅の近くの、たぶん廿代町だと思うが、浪漫亭という店で食事をした。ものすごい量のごちそうだったが、ほとんどすべていただいた。高知の人々と一緒に食べるので、いっそうおいしい気がする。私は高知人の気質がとても好きなんだ。嫌いな人は嫌いだと思うけれどね。
言葉使い
2002年11月30日(土)
高知に来る途中で宮田光雄『ナチ・ドイツと言語』(岩波新書)を買った。ものすごく面白くて、一気に読んでしまった。以下のような章立てになっている。
独裁者の言語 ― ヒトラーの政治宗教
映像の言語 ― 党大会映画『意思の勝利』
教育の言語 ― ヒトラーの歴史教科書
地下の言語 ― ジョークの中のヒトラー
深層の言語 ― 悪夢の中の《第三帝国》
私にとって興味深かったのは以下のような点だ。
こうしたヒトラーの言語は、政治的現実をカモフラージュすることにも役立った。ナチ治下の残虐な政策や行き過ぎた暴力行為も、婉曲語法によって偽装される。たとえば「民族的体躯の健全化」という一見無害な言い回しの背後には、遺伝的疾患を持つ者の強制断種が隠されていた。オイタナジー(=安楽死)という外来語は、無力な精神障害者の殺害を偽るものであった。よく知られているように、《最終的解決》という用語によって数百万に及ぶユダヤ人の大量虐殺が意味されていた。(p.10)
1985年にカナダのモントリオールで国際アドラー心理学会総会があって、そのときドイツの代議員がついうっかり final solution(最終的解決)という言葉を使った。アメリカのユダヤ系の代議員が青ざめて、次いで一斉に退席した。ドイツの会長が陳謝して、その騒ぎは収まった。今でもユダヤ人にとってその言葉はトラウマティックな作用を及ぼすのだ。
こうしたナチ教科書の伝える傾向的な《ヒトラー像》の特徴をとり出してみよう。それはフィーリップ・ブーラーによる『ドイツの戦い―ドイツ青年のための読本』によくあらわれている。(中略)その一部を引いてみよう。
「1918年11月9日から、ドイツにとって、もっともみじめな恥辱の時代が始まった。国家の裏切り者と脱走兵たちとの氾濫が政治生活の表面に残したのは、《価値なき輩》の支配だった。彼らは、すべての者を富ませると約束して、何百万の人々から日々のパンを奪った。彼らは、自由を口にしつつ国民を鉄鎖と奴隷の状態につないだ。……この抑圧と絶望と苦難の荒野の中で、一つの声が起こった。アードルフ・ヒトラーは、新しい世界観を告知した」。
ここで用いられている情動的な文体は、誇張されたアンティテーゼ、最上級的概念、絵画的な言葉で彩られている。とくに聖書的イメージを呼び起こす「荒野の中の声」、「告知」(=宣教)という言葉は、語られていることへの信仰的献身を訴えかける。こうして若い聞き手ないし読者は、扇動の言葉に圧倒される。この本の最後の章は、「勝利の信念」と題されている。
「暗黒と恐怖からのドイツ再生の物語の上には、光り輝く文字でアードルフ・ヒトラーという一つの名前が立っている。はじめに未知の無名の一人の人物が自分の使命を信じた。この信仰こそ彼のすべての行動の内的な原動力であった。彼がその内面に焼き尽くす炎を感じない時はなかった。その炎は、多くの日々や眠れない夜々を越え、多くの歳月を越え、数かぎりない抵抗や幻滅、挫折した希望を乗り越えて前進させた力だった」。(pp.105-106)
毛沢東の時代の中国や、現代の北朝鮮には、こういう風な扇情的な文書がたくさんある。民衆は(特に子どもは)こういうような文章にだまされるのだ。日本でも、ある巨大宗教団体の文体は、こういう臭いがあるな。
このような独裁者とその手先の言葉の使い方も勉強になったが、第3章にアードルフ・ライヒヴァインという教育者が、ヒトラー治下でも真に自由主義的な教育を実践したことが報告されていて、とても感動的だった。この人については、きちんと調べてみようと思う。しかし、ドイツ語で書いた文献しかないと困るな。せめて英語で書かれたものはないかな。
余談だが、最近、ある人の言葉使いをめぐって、仲間内ですこし話題になっている。その人は、人間的にはいい人なのだが、言語感覚が悪いのか、アドラー心理学について語るときに、いささか不適切な用語法を使う。ひとつのことを言いあらわすのでも、さまざま表現法がある。ヒトラー一味はそのことにきわめて敏感で、邪悪な内容を崇高な用語法で飾って国民の指示を得た。逆に、いい内容のことでも、人々に悪印象を持たせるような言葉で語れば、支持を失ってしまう。そういう人に、どうすれば適切な言葉使いを教えることができるのか、その方法について苦労している。