「論理的結末」とアドラー心理学
Q
「論理的結末」とアドラー心理学のカウンセリングはどのように関係しているのですか。また、「社会的結末」とはどのように違うのですか?
A
アドラー心理学のカウンセリングは論理的結末なんですよ。
カウンセリングの構造を荒っぽく言うと、クライエントが「選択できる可能性」をはっきりさせること。例えば、「うちの子どもが登校拒否になりました」と言ってお母さんが来る。このお母さんが選択できるのは何か。「子どもを学校へやる」という選択はない。なぜなら、子どもが学校へ行くか行かないかは子どもが選ぶから。母親の選べることじゃないから。母親は、「不幸な登校拒否児の母か、幸福な登校拒否児の母か」が選べる。子どもが学校へ行かないという条件は一定で、お母さんが幸せでいるか不幸でいるか。登校拒否のことで喧嘩するか仲良くするかは選べる。現実的に。だから最初の話題は、現実的に選択可能な枝(わざ)は何かはっきりさせたい。
次に、必要があれば、ある枝(わざ)を選んだ結果今後どうなっていくかの予測もはっきりさせたい。不幸なお母さんをやって悩み続けると、そうするとやがて子どもは元気なるかそれともずっと元気でないか。どっちの可能性が高いか。子どもが登校拒否しているのを悩まないでニコニコとしていると元気になっていく可能性が高いか、不幸でいる可能性が高いか。たぶん、ニコニコとしていうほうが子どもが元気になっていく可能性は高い。あるいは、「学校へ行ったほうがいいんじゃない」と言って喧嘩をするのと、学校のことなんか忘れて仲良くするのと、どっちが将来問題としていいことが起こってくるか。将来の予測をすることもある。
もうちょっと突っ込んで、お母さんが根性悪ババアである場合は、行動の目的を考えることがある。不幸である原因は子どもが登校拒否しているからでしょう。原因はどうでもいい。目的は子どもを罰することです。「あなたが私をこんなに不幸にしているのよ。いいかげん反省して学校行ったら!」と、子どもに圧力をかける。だから、お母さんが不幸でいる限り、親子関係は支配的で縦関係です。お母さんが勇気を持って不幸でいることをやめない限り、いい親子関係が築けない…という話をする。
こういう話をして、「さて、あなたはどっちを選びますか?」と言う。そうするとこれは論理的結末を使ったことになる。
アドラーのカウンセリングは、お客さんの話をよくよく聞かせていただくけど、聞いたら治るというものではない。お客さんの気持ちに深く共感するけど、したら治るというものでもない。どうやったら治るか、実際に現実的に選択できる可能性をはっきりさせて、その中で一番建設的なのをその人の力で選ぶことです。
でも、中には、どうしても建設的な可能性を選びたくない人もいる。「なるほどわかった。子どもと仲良くすれば学校へ行くかもしれない。でも悔しくて選べない。どうしてもあの子を罰し続けたい」。オッケー。それを選ぶんだったら、自分の責任で選ぶんだったら、カウンセリングはそこで終わり。僕たちが援助できないから。「親子ともども地獄へ堕ちなさい。これも前世の業(ごう)でありましょう。気が変わったらまたおいでなさい」と言って帰すと、だいたい気が変わります。2,3週間したら。
社会的結末とどう違うか。アドラー自身が書いていることがある。
「共同生活の諸要求は例えば人間に及ぼす天候の影響がもたらす諸要求や、防寒や住宅建設の諸要求などととまったく同様に自明なものである。われわれは共同社会への強制を宗教の中にも見る。たとえそれがいまだに理解し難い形式を取っているにしてもである。宗教においては、理解できる形式の代わりに社会の諸形式を神聖化することが共同社会への結合手段として役立てられている。生活の諸条件は前者、天候の場合には宇宙的自然的に規定されているとすれば、後者の場合は社会的に規定されている。つまり人間たちの共同生活によって、またそこからおのずと生じてくる諸規定、合法則性によって規定されているのである。共同生活の諸要求はすでに自明なもの、絶対的真理として成立していた人間の諸関係を維持してきた。というのは、人間個々人の生活以前に共同社会があったからである。人間の文化の歴史の中で社会的なものとして営まれなかったような生活形態は一つも存在しない。人間は共同社会の中以外のどこにも出現しなかった。こうした現象は容易に説明できる……」
アドラーは、環境を自然的な環境と社会的な環境の2つに分けて考えた。それ以外の環境はない。自然の法則で起こってくるのは自然の結末。例えば、裸になって走っていたら風邪を引くのは自然の結末。道を裸で走っていたらお巡りさんに捕まったというのは自然の結末でない。物理的な力じゃないから。これは社会的結末です。
アドラーは宗教について書いていたが、不合理な約束も社会的結末の場合にある。物理法則には合理も不合理もない。1個しかないから。社会的な結末はときどき不合理です。日本では宗教が不合理なことをするのはあんまりない。一番不合理なのは学校の校則です。ちょっと古い時代の価値観を反映していたりする。
不合理な社会的結末に対して態度決定しておかないといけない。態度決定はアドレリアンによって考え方が違う。私は「悪法もまた法なり」派。ルールがある限りはそのルールは守られるべきだと思う。それとは別に「ルールの改正運動をしてください」と言う派がある。「守らなくてもいい」派の人もいる。議論のテーマにはなるけど。
論理的結末というのは、その両方についての話し合いのことです。具体的に自然法則とか社会の規則の中でわれわれは何を選べるか、何を選んだらどんな結末があるか、だからどっちを選ぶか、という話し合いのことです。(野田俊作)