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スレッドNo.168

絵本の創作に取り組んだシリーズキャラと言えば

 あとは『スマイル』のみゆきぐらいでしたっけ?あれ、もっと居たような気がしましたが…。

 ましろんの器用貧乏さは某エリート学園の元・生徒会副会長のK様を想い出しますね。あの方は結局プロのカメラマンになったみたいですが。


>1冊読むとさらに1冊、次の1冊……とある限り読まされる

 (↑)これ、マジでそうなんですよ。親の仕事の関係上、愛娘二人とも幼い頃からすっかり宵っ張りになってしまって、一時期は寝付くまでに毎晩軽く10冊ほど読む羽目に陥ってましたね~w。


>富を増やすのは労働力だけ
>利潤が減っていきゼロになると、資本主義は回っていかない。

 学者は小難しい名前を付けたがるもので、いわゆる「資本の有機的構成の高度化」とか「窮乏化法則」に関係する部分ですね。「窮乏化法則」については、(だいぶ昔の人ですが)マルクス経済学者の宇野弘蔵がマルクスの主張を徹底的に批判しています。

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 … 資本主義がどんどん生産方式を改善していくというと、過剰人口がどんどんできてくる。過剰人口がどんどんできてくると、労働者の生活はますます窮乏化する。これが有名な窮乏化法則というものなのです。…… [生産能力が上がると、資本に対して人口が相対的に過剰になるような傾向を持っているという]人口法則までは正しいのです。しかし資本は不断に生産方法を改善してはいかないのです。…… いっぺん資本を投じるとどうしても固定資本があるのです。この固定資本を無視して、新しい方法をどんどん採用していくということは資本主義にはできないのです。その点が、この窮乏化法則になる議論の落し穴になっているわけで、マルクスはそこをちょっと忘れてしまったんだな。… (宇野弘蔵『資本論を読む』ちくま学芸文庫 p.74~75より引用)
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 … そもそも、『資本論』第一巻末尾のこの宣言[※生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される]は論理的にナンセンスなのだと、最初から宇野弘蔵は考えていました。…… 景気循環の中で、賃金というのは上がることもあれば下がることもあります。それに、生産力が増大していくにしたがって、労働者の生活環境もよくなってきますから、窮乏が起きてくるとは必ずしも言えません。もっとも、資本主義が行き詰まることはあります。それは恐慌という形で現れます。…… すると労働者に商品を買うカネがなくなり、貧困という状況は生じる。しかし、そんなことはイノベーション、新技術の開発によって基本的に乗り越えていくことができる。労働者が窮乏化する必然性はない。資本主義は爆破されず、崩壊もせず、あたかも永続するかのごときに生き延びていくのだ、というのが宇野の考え方です。(佐藤優『いま生きる「資本論」』新潮社 p.129より引用)

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 池上彰氏が『高校生からわかる「資本論」』で指摘しているように、マルクスの出自は「キリスト教に改宗したユダヤ人」ですから、彼の立論にはユダヤ=キリスト教に由来する直線的な歴史観に基づいた「最後の審判」とそれに続く「千年王国」的発想が見え隠れしていますね。それに対して宇野は「好況と不況(あるいは恐慌)は円環を成す」と、仏教の輪廻転生を思わせるような、如何にも日本的な死生観から異議申し立てを行った…と言えるのかもしれません。


>スタインベック

 『怒りの葡萄』は何せ余りに長過ぎるから、まずは『二十日鼠と人間』を推しますね。ほぼ原作準拠の映画も悪くはないけれどラストの解釈が個人的にはちょっとモヤるので、原作を先に読まれることをおススメします(言いたいことはいろいろありますが、ネタバレになるので自重w)。


>アメリカの黒人奴隷が市場競争力がなくなって囲い込むメリットがなくなった

 御大のこの指摘に関しては、今回偶々見つけたこの動画が非常に腑に落ちましたね(↓)。  https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%a5%b4%e9%9a%b7%e5%88%b6%e5%ba%a6%e3%80%80%e5%bb%83%e6%ad%a2%e3%80%80%e3%81%aa%e3%81%9c&docid=603543832556619194&mid=5EDBA6724D6A0F61A9305EDBA6724D6A0F61A930&view=detail&FORM=VIRE

 要するに大英帝国内の経済政策を巡って、新興勢力が旧勢力を政治的に駆逐した所産だったって訳ですね。アフリカを奴隷の供給元とするよりも、工業製品の原材料を安価で調達できる場所&出来上がった製品を一方的に売りつける市場とした方が「遥かに儲かる」ことに気付いてしまった…と。資本主義システムのどす黒い側面が遺憾なく発揮されていますねぇw。

 テーマに合わせた訳でも無いのですが、今週読んだ本(↓)の中でも、貨幣経済の進展が中世ヨーロッパに及ぼした有形無形の影響が詳細に述べられていて興味深かったです。
 https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E7%AA%93%E3%81%8B%E3%82%89-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%98%BF%E9%83%A8-%E8%AC%B9%E4%B9%9F/dp/4480098011

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%98%9F%E3%81%AE%E4%B8%8B%E3%81%A7-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%98%BF%E9%83%A8-%E8%AC%B9%E4%B9%9F/dp/4480093419

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 人と人との関係のあり方を古来長期にわたって規定してきた贈与慣行が売買による関係に転化してゆく際の人びとの心の葛藤の隙間に極めて巧みに仲介者として登場した教会がカテドラル[大聖堂]建築の費用を調達しえたのはこうした背景があったからなのである。十二、三世紀になると都市内部にもさまざまな形で商人や手工業者から寄進がよせられる。これらの建設や像が今日のヨーロッパの都市の景観をつくりあげている。十六世紀初頭にマルティン・ルターが、贖宥符(免罪符)批判を行ない、現世における善行つまり貧民や教会への喜捨・寄進などの行為は天国における救いを約束するものではない、とはっきり断言し、カトリック教会の財源に打撃を与えたとき、ヨーロッパにおける古代的な贈与慣行は少なくともプロテスタント地域では原理的には払拭された。ルターの贖宥符批判によって中世の中に浸透していた古代が終末を迎えたのである。(『中世の星の下で』p.264~5より引用)

◆◆◆

 濃密な人間関係を反映するポトラッチ的な贈与慣行が支配した古代から、金銭を媒介としたドライな商品交換が全てを覆い尽くす近代 ― その二つの価値観がせめぎ合った過渡期の中世は、大聖堂のみならずカタリ派などの各種「異端」やら、聖地巡礼の旅やらユダヤ人迫害やら様々な「文化的遺産」を生むに至った ― ということのようです。

編集・削除(編集済: 2023年06月19日 23:51)

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