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スレッドNo.226

ツバサの青田刈り回?

 原石を発掘して職場経験を積ませて、挙句配属先まで決めちゃうのか…この婆さん何でもアリだなw(苦笑)。


>『江戸の瓦版』

 ネット記事を書籍化したということもあって、サクサク読めて楽しめました。瓦版の売り子が顔を隠していたというのを聞いて初めは意外に思いましたが、改めて考えてみれば、封建社会に“報道の自由”などある筈が無いのは当たり前でしたねw。

 私が一番興味を惹かれたのは、黒船来航絡みの二つのエピソードでした(前者は瓦版と直接関係はありませんが)。

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 ところで、アメリカの議会がペリー艦隊に課した仕事は、「通商」「薪水・燃料の補給」「避難民の保護」を日本に認めさせることだった。この三つの内容を織り込んだ条約によって、日本と国交を結ぶことができれば、ペリーは任務を完了したことになる。

 しかしながら、アメリカが最も期待していた「通商」に関して、ペリーは日本側に認めさせることができなかった。それは日本側交渉役のトップが、あまりにも手強かったからである。その役人の名は、林復斎(はやし・ふくさい 1801~59)。彼の当時の肩書は「大学頭(だいがくのかみ)」で、今で言うならば「東京大学の総長」に相当する人物だった。

 ペリーは通商の意義について懇々と説いたが、復斎は、巧みな弁論術と圧倒的な知性で、その裏にある真意を暴いてみせた。…… これに対し、一介の海軍軍人であるペリーは反論することができなかった。そのため、不本意ながら「通商」の要求を取り下げたのである。

 圧倒的な軍事力の差があったにもかかわらず、幕臣たちは臆することもなく堂々とアメリカ側と渡り合った。そして、一切戦火を交えず、平和的に事態を収拾したのである。アジアの周辺国が次々と、欧米列強の植民地、あるいは半植民地とされていく中で、この結果を導いた日本側交渉役の質の力量は賞賛に値する。(p.81~82)

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 成程、だからこの時(1854年)に日米間で締結された条約名は、あくまで「日米“和親”条約」であって「通商」の2文字が入っていない訳か。ただ残念ながらこの折角の「ビギナーズラック」も、4年後の1858年にかの大老井伊直弼が欧米列強と相次いで結んだ不平等条約―安政の五カ国条約―でおジャンにしてしまうことになるのですがw。

 もう一つは、黒船来航時に米国からなされた贈り物(蒸気機関車のミニチュアやモールス電信機など)の返礼として、相撲取りらにパフォーマンスを行わせた件ですね(↓)。

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 ところで、伊豆の下田に招集された力士たちに課された仕事は、巨躯を披露することに加えて、怪力を見せつけることだった。そこで彼らは、まず日本側からの贈り物である二百ほどの米俵を、アメリカ側の小船に次々と運び始めた。米俵は一つ60kg程度である。これを、力士たちは一人で複数個持って動いたのである。…… 次ページ図25の瓦版には、身体の大きな力士たちが、軽々と米俵を持ち上げてアメリカの小船にどんどん運び込み、それをアメリカの兵たちが驚いている様が見事に描かれている。日本側のやり方は理知的ではなかったかも知れないが、決して間違っていたとも言えないだろう。(p.85~86)

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 当時の江戸幕府のトップらが雁首揃えて知恵を絞った結果産まれた、アメリカに対する精一杯の「示威行為」だったんでしょうね。


>『下級武士の田舎暮らし日記』

 こちらも興味深い本でしたね。内容の大半は実務的なやり取りが淡々と記録されているだけなんですけれど、幕末に掛けて徐々に貨幣経済へと巻き込まれていく江戸時代中期の世相の一端が垣間見えて面白かったです。「猪の食害を防ぐための鉄砲使用許可申請」に何度も言及されているのが何ともリアルですね。その再三に亘る申し立てに対して当初は十把一絡げに許可・不許可を決めていた当局の対応が、現場の突き上げを受けて渋々ながら地域ごとに少しずつ異なった取り決めをするようになっていく様子は、まさに日本的「お役所仕事」感がありましたw。

 あとはそうですね。著者の矢嶋喜太夫が誠心誠意仕えた第5代仙台藩主・伊達吉村が、8代将軍徳川吉宗と「昵懇だった(p.136)」というエピソードは、これが後の戊辰戦争での「奥羽越列藩同盟」発足に当たって、仙台藩が旗振り役の一人となることに繋がっていくのか…などと思ったりしました。


>オトナプリキュア

 今回は見事初トライで変身出来ましたね(笑)。しかし「タイムフラワー」なる名称といいシャドウの目的といいまだまだ謎だらけで、先読みさせませんねぇ~。

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