ターザンと紛らわしいw
…なんてのはすっかりオジ(イ)サンの感想なんでしょうなぁw。まぁ谷村新司もSMAPも明石家さんまも知らない塾生(現高校一年生)が居るくらいだから、今更不思議でも何でも無いんでしょうが。
>現代の子どもが金で買えるから物事を消費的に捉える、というのはやや行き過ぎな感
これまで内田樹氏の著書は読んだことが無かったので、これを機会にいくつか読んでみました(↓)。まぁ結論から申し上げると:
① 確かに切れ味鋭い分析も含まれているとはいえ(但し一章のみ)、全体としてはやや記述が一面的過ぎて、読み進めるに従って思い込みが強すぎる余り独りよがりな暴論に堕している部分も無きにしもあらず。
② 書名が中学生向けを想定して書かれた「学ぶということ」なのにも拘わらず、「日本は米国の属国」と言い切ってしまうなど、いかにも左翼思想強めの現体制批判(当時は安倍政権)に終始しているのは正直頂けない(思想的立場はどうあれ、まずは先行世代に対する信頼と敬意とを最初に抱かせるべきでは?)。しかも政治家や財界人らを散々にこき下ろした挙句、最後に言うセリフが「(これからどう生きたらよいのか)あとは自分で考えてくれ(p.48)」とは無責任極まりない…著者紹介によると、この方は執筆時点で「神戸女学院大学名誉教授」のはずなんですが(苦笑)。
①https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BE%BA%E5%A2%83%E8%AB%96-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4106103362
② (冒頭部のみ)
https://www.amazon.co.jp/%E7%B6%9A%E3%83%BB%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E7%94%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E7%BE%A91-%E5%AD%A6%E3%81%B6%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%83%BC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A1%90%E5%85%89%E5%AD%A6%E5%9C%92/dp/4480683313
どうやらこの方は、これまで日本を日本たらしめてきたと著者自身が信じる確固たる「教育観」をお持ちのようで、それに少しでも疑義を挟む人々に対しては過剰に反応し徹底的にやり込めようとするメンタリティをお持ちなように見受けられますね(↓)。
―――
「学び」という営みは、それを学ぶことの意味や実用性についてまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろうと先駆的に確信することから始まります。「学び」はそこからしか始まりません。私たちはこれから学ぶことに意味や有用性を、学び始める時点では言い表すことができない。それを言い表す語彙や価値観をまだ知らない。その「まだ知らない」ということがそれを学ばなければならない当の理由なのです。そういうふうな順逆の狂った仕方で「学び」は構造化されています。
「学ぶ力」というのは、あるいは「学ぶ意欲(インセンティヴ)」というのは、「これを勉強すると、こういう『いいこと』がある」という報酬の約束によってかたちづくられるものではありません。その点で、私たちの国の教育行政官や教育論者のほとんどは深刻な勘違いを犯しています。…… 「学ぶ力」とは、「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。ですから、もし「いいこと」の一覧表を示されなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子どもにおいてはこの「先駆的に知る力」は衰微しているということになります。…… 今の子どもたちは「値札の貼られているものだけを注視し、値札が貼られていないものは無視する」ように教えられています。その上で、自分の手持ちの「貨幣」で買えるもっとも「値の高いもの」を探し出すように命じられている。幼児期からそのような「賢い買い物」のための訓練を施された子どもたちの中では、「先駆的に知る力」はおそらく萌芽状態のうちに摘まれてしまうでしょう。……けれども、この力は資源の乏しい環境の中で生き延びるために不可欠の能力だったのです。…… この能力を私たち列島住民もまた必須の資質として選択的に開発してきました。狭隘で資源に乏しいこの極東の島国が大国強国に伍して生き延びるためには、「学ぶ」力を最大化する以外になかった。「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えて来た。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来がないと私は思います。(前掲書① p.196~8より引用)
――
引用の一段目はまぁ頷けるとして、二段目の途中から「ん?」という感じになり、最終文の結論に至ってはそれは流石に言い過ぎだろうとの印象を受けました。
以前のコメント内で私は「教育現場で学生たちが表明する「不快」なる感情の出所を、資本主義的行動様式が齎す当然の帰結」とした著者の分析を肯定的に評価しました。その点は今も変わりません(それは私自身が塾の現場で「わざわざ塾に通っている以上雑談や雑学は一切不要。教科書に記載された“試験に出そうな事柄”だけ説明してくれ。」と要求する一部の生徒と関わっていることもあります)が、著者は例えば「因数分解とか昔の歴史とか、そんなの覚えて将来何の役に立つの?」的な、今も昔も生徒から発せられる「極めて素朴な疑問」に対してまで、「それは学習行為からの“自覚的逃走”を表明したものに他ならず、その背後にあるのは資本主義的価値観の蔓延」とミソもクソも何もかも同じ物差しに当てはめて説明しようとしているかように個人的には映りました。むしろ教師の言われたことに盲従せず質問を投げかける行為は、生徒らが「自分の頭で考えようとしている」証左だとして肯定的に捉えることも出来るかとも思うんですが(御大の指摘される通り、教職が昔ほど神聖視されず、同時に権威的で無くなった影響も当然あるでしょうしね)。
著者は教育者を名乗るのであれば、そういう素朴で真っ当な問い掛けを頭ごなしに否定せずにまずは受け留め、(それが間違っていると主張するのであれば)その思い込みをやんわりと正し、何なら己の土俵へと巧みに誘導するくらいの「オトナの狡猾さ」を弁えていて然るべきではないかしら。教育者ではない塾講師の端くれである私すらそれくらいのことは考えますしね。この方の「物差し」に従えば「無知蒙昧な生徒の分際で教師に「学ぶことの意義」を問うなど烏滸がましい、お前らは黙ってオレの言う通りにやれ!」的な、ふた昔ほど前のマッチョな指導者しか認めないということになりそうですw(苦笑)。
あと蛇足ながら著者の記述で個人的に全く許容できないのは「SFとは1950年代末に人類が自分で造り出したテクノロジーによって滅びる可能性が切迫してきたため、その虚無感と恐怖を描き出すために発明された新しい文学ジャンル(前掲書②のp.12)」との件ですね。ジュール・ヴェルヌもH.G.ウェルズも1926年創刊の『アメージング・ストーリーズ』すらもガン無視とは良い度胸をしているww(←面倒臭いファン)。典型的な「専門外のことは迂闊に断言せず黙っておけば良いのに」案件ですね。
>オトナプリキュア
最後まで脚本が詰め込み過ぎでしかも説教臭い(苦笑)。まぁ初の試みということを考慮すれば取り敢えず及第点を上げてもよいかなぁw(←何様)。
>回想シーンちょっとサバ読みすぎ
ココによる歴史改竄というより、放送媒体(Eテレ)に配慮した東映側の「自主規制」なのではないですかね?
>地球外少年少女
第3,5,6話しか観れなかった(4話は録画に失敗)ので当然なのかもしれないんですけれど、閉塞した舞台設定の下で意味不明のカタカナ語が乱れ飛ぶ&登場人物の発話の度ごとに新たな謎が提示され続けることに終始追いつけないまま、いつの間にか話が終わっていたというのが正直な感想ですね。こっちも脚本が詰め込み過ぎなんじゃないかしら。