多忙のため少しご無沙汰しておりました
ガリレオ「私は地動説を抱きも擁護もしていません(第1回審問より)。」
例の動画サイトからで恐縮ですが(↓)
末尾で紹介されている参考文献を私も読んでみました(↓)。動画制作者はしっかり読みこなした上で動画に反映させているなというのが正直な感想です。
https://amzn.asia/d/20abuoS
前掲書によるとガリレオ裁判関連の一次資料が出揃い、ヴァチカン出版局から公刊されたのが漸く2009年のことらしいんですね。裁判の全体像が(取り敢えず現存する資料を基に)解明されてまだ20年にもならないということに驚かざるを得ません…知識はアップデートを続けないと忽ち古びてしまいますねw。
動画にも纏められているように「予め判決の落しどころは裁判前にほぼほぼ確定していた(=無自覚に犯した罪であることをガリレオが認めて結審する段取り)が、前科持ちになるのがイヤで、あくまで(訴追された時点で既に無理筋の) 無罪獲得に拘ったガリレオが、法廷戦術のミスも相俟って自爆し思い掛けない厳しい判決を受けることとなった」というのがどうやら真相みたいですね(↓)。あとヨーロッパは当時三十年戦争の真っ只中で、天動説を奉ずるカトリック教会=教皇の権威に傷が付きかねない言動が、極度にセンシティヴな扱いを受けたというのも大きかったみたいです(↓)。
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宗教裁判が現代の裁判と大きく異なるのは、第一にそれが有罪か無罪かを争う場ではなかったことである。…… 宗教裁判の目的は何かと言うことについても、今日の裁判の目的とするところとは異なっていた。特定の犯罪行為を究明して処罰するのではなく、被告に異端思想を抱いていることを自覚させるとともに、贖罪のための機会と手段を与える — 現実には量刑を確定すると言い換えることもできる ― ためのものだった。…… 率直に自白しないばあい、被告は牢獄に戻されて再考を促された。どのような尋問手段でも自白が得られないばあいは、拷問もありえた。(本書 p.22~24)
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これまでのガリレオ裁判について書かれた数多くの書物では、ガリレオは「聖書」の記述に反する地動説を唱えたために宗教裁判にかけられ、有罪判決を受けたと説明されてきた。この説明はまちがっているとまでは言えないが、そのとおりだと言い切ることにも抵抗がある。確かに1616年の裁判での告発理由と1632年秋の特別委員会の報告は、ガリレオの主張が「聖書」の記述に反していると非難していた。しかし、この特別委員会の告訴理由は修正されて、判決文では、ガリレオが「聖書」に反する意見を主張したということではなく、これまで「汝に出された禁止命令」に違反しているというのが直接的な有罪理由だった。ガリレオの眼前で進行していた裁判では、命令違反があったかどうかが争点になっていたのである。
実質的にガリレオの告発者となった[教皇]ウルバヌス八世については、『天文対話』で支持されている意見が「聖書」の記述に反していると強調していないことに注意すべきである。……[教皇は]ガリレオ裁判を、天動説と地動説のいずれが天文学の理論として妥当なのかという「数学的な問題」としてではなく、キリスト教を危機にさらす問題としてとらえていたのである。…… 地球が宇宙の中心になく、他の惑星と同列の地位にまで引き下げられるのなら、その地球上に住む人間の地位も同様に引き下げられることになるだろう。…… 地動説は、何世紀にもわたって人々に信仰されてきたキリスト教の根幹、人びとが拠り所としてきたものを台なしにしようとしていると考えられたのである。…… 裁判のほうも、地動説がキリスト教にもたらしかねない深刻な問題に立ち入ることはなかった。異端審問官のうちのどれだけがこの深刻さに気づいていたかわからないが、教皇の憂慮を裁判の主題として、科学的な発見が宗教に及ぼす危険性を徹底して論じるより、この裁判を命令違反ということで終結させるのが賢明というものだろう。(本書 p.197~201より)
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教皇は教皇なりに、宗教組織の長として「民草の心の平安」を望んでいたということか。
それはそうと、「自身の法廷内での発言がその後の裁判の進展に如何なる意味を持つのか」に思いを致さず、要らんことを言い出しやせぬかとヤキモキしながら見守る周囲の裁判関係者をよそに、ひたすら自説の開陳に努めるガリレオの姿は、私には東京裁判時の東条英機に重なって見えました(苦笑)。
>最近の読書① ショーロホフ『静かなドン』岩波文庫全8巻
二カ月ちょっと掛けてやっと読み切ったw。まずロシアの長編小説あるあるですが、トルストイ『戦争と平和』みたいに明瞭な性格付けのなされていない登場人物がやたらと多過ぎますわ。しかも例によって父称やら愛称やらが脚注無しに交ざって出まくるので誰が誰に喋っているのかを容易く見失ってしまいますし、更に執筆に足掛け15年を掛けたせいか回収されないままの伏線があったり、主人公が途中で暫く登場しなくなったり、代わり映えのしない局地戦の描写が延々と続いたり、と小説としての構成も行き届いて無い。まぁロシア革命前後にコサックという社会階級が如何に時代に翻弄されたかという空気感を感じ取ることが出来たというのが数少ない収穫と言えば収穫かな(もう二度と読まねぇぞw)。
因みにコサックって聞いたことがあるけれど何やねん?という私と同じ疑問を抱いた方にはこちらの記事が参考になります(↓)。
https://note.com/higedaru/n/nff444a6f72b9
「俺たちは卑しい百姓(農奴)とも都市労働者(プロレタリアート)とも違う、ツァーリ(ロシア皇帝)直属の由緒正しき親衛隊の家系だぜ!」てな感じでしょうか。このある意味鼻持ちならないエリート意識は、そういや小説にも随所に顔を出していました。まぁこの偏狭なエリート意識がいずれ自らの首を絞める一因ともなる訳ですが。
>最近の読書②
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新海誠監督『君の名は。』の並行宇宙ヴァージョンとでも纏めればいいかな、作品としては根幹の「少女がセカイを救う」点も含めて新規要素は殆ど無い、王道のボーイミーツガールものですね。作者のご当地愛(物語の舞台は戦前に飛行船ツェッペリン号が飛来した茨城県土浦市)溢れる描写の後押しも受けて、アニメ化されたなら少なくとも地元は大いに盛り上がりそうな気がします。
>最近のこむぎ
なぁんだ、結局宝石の謎パワー(かなりの力業ですね)の後押しで学校に行けることとなったのか…まぁ確かに毎回いろはの学校帰りを待って変身する訳にも行かないですしねぇ(苦笑)。
>ユーフォ3期
漸く久美子3年生編か…「あの事件」で仕方無かったとはいえ、随分と制作がズレ込んでしまいましたねぇ。原作はだいぶ前に一度読んだ切りですから、ほぼ忘れてしまいましたね。確か久美子と同学年(高三)の、パッと見には人当たりの良さそうな「問題児」が転入して来たんじゃなかったかな。
個人的には同じNHKのこちらも4月から視聴してみようかなと思っています(↓)。偶々2月に出た最新刊以外はシリーズ(外伝含む)を一通り読んでいたこともあったので。
https://www.nhk-character.com/karasu/
ただ原作は安全安心な予定調和的ハッピー展開には意地でもしないぞと言わんばかりの、著者の「底意地の悪さ」が少しばかり鼻に付くかな。胸糞エピソードも少なくないし、その点好き嫌いの分かれるところですね。
>葬送のフリーレン
過去に魔王討伐を成し遂げた今は亡き勇者ヒンメルの人となりに改めて思いを馳せることで今の自分が生きる指針を得つつ、将来の再会を待ち望みながら困難な旅路を辿る…という物語の構造そのものが、イエスの言行を記した福音書を紐解く「この道の者」に重なって見えるんですよねぇ。もしこの作品がキリスト教圏で人気があるのだとしたら、それも理由の一つなのかもしれないな、なんて最近はつらつら考えています。