クレしんとのコラボ
私もつい先日知ったのですが、今回が初めてでは無かったみたいですね(↓)。リアルタイムではなく円盤での後日視聴では分かりませんでしたわw。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%82%A2
>嘘ではないけど正確でもない
>流石に凶暴化したガルガルと変身してバトってるとは言えない
これってやっぱり「親に対して隠し事がある」ことになるんじゃないかと私なんかは思うんですが、今回の描写を見るにいろは的にはセーフ判定なのかな。まぁ流石に我が子が自分の与り知らぬ所で異形の生命体と格闘するのを許す親は居ませんし、勿論そのことはいろはも自覚しているでしょうから、情報開示の落しどころとして止む無しと考えているのかもしれません。
>実際のところ何が凄いのかわかんない
>そういう存在は大抵は大御所で、下っ端は楽団員にまともな相手すらしてもらえない
「部内の揉め事や調整は生徒一同に丸投げしている部活顧問」という存在は(部活顧問が主役でもない限り)、cosmos様の仰る通り作劇の都合上便利遣いされているかとばかり思っていましたが、現実にも存在しているんですねw(苦笑)。まぁ好結果を出し続けてさえいれば生徒とのコミュニケーションが取れていようがいまいが、外野が勝手に「優秀な指導者」なり「大御所」なりへと勝手に祀り上げてくれるということなんでしょう。逆に言えば結果こそが全てですから、前回チューバ2年こと鈴木美玲が滝先生への疑念を表明したのも「2年連続での全国大会への出場がかなわなかった。」からに他ならないと、物語的にも筋が通りますしね。
そんな「優秀な指導者」であられる天才肌の部活顧問とのバランスを取るためでしょう、今回のエピソードでもそうですが、副顧問の松本女史が教育者として地味ながら確かな役割を果たしている描写がそこここに挟まれるのが印象的ですね。
>奴隷貿易でアフリカの政治や経済もそれなりに回ってた
確かにcosmos様の仰る通りですが、動画でも触れられているように奴隷貿易で成人男性が大量に新大陸へと連れて行かれた結果、伝統的な部族社会を維持できないほど男女比がアンバランスになったみたいですから、どう考えても昨今流行の「持続可能な開発」とは言えなかったようですね。そういう点ではアヘンが介在した英・印・清からなる19世紀の三角貿易と大同小異ということでしょうか(遂に清が1840年にキレて終了(アヘン戦争勃発))。
>アンデシュ・ハンセン『ストレス脳』
>人間は原始時代のハードウェアのままなので、ストレス(緊張状態)=免疫機能を働かせて防御に備える
奇遇ですね。先日塾生が同著者による別の本を読んでいたので、私も早速図書館で『スマホ脳』・『メンタル脳』・『最強脳』を借りて読んでいました(プレゼンしようかしまいか悩んでいたら御大に先を越されてしまったw(苦笑))。書名は違えど著者の主張は一貫していて、御大のプレゼン内容そのままでしたね。まぁ気分が落ち込むことがあっても暫し立ち止まって「原始時代のままアップデートされていない脳ミソが良かれと思ってしていることなんだから」と思いを致しさえすれば、自己を客観視する助けにもなり少しは辛い気持ちが紛れるかもしれません…もちろん病的なまでに悪化すれば迷わず医者を頼るべきなのは言うまでもありませんが。
>なんでもいいから運動すると良い。具体的にはランニングなら15分以上、ウォーキングなら1時間以上が望ましい。すると不安障害やうつのリスクを減らせる
「運動が全てを解決する」というのは実体験として凄く納得がいきました。私の場合毎朝20~25分程度早歩きでウォーキングするのを日課にしていますが、やっぱり運動した直後が一日で一番気分爽快ですから。著者曰くジョギングの方が短時間でより効果が望めるんでしょうけれど、私の場合若い頃に酷使し過ぎてすっかり膝を痛めてしまっているのでそれは難しい。毎日一時間以上歩くのは時間的に流石に厳しいし、日常生活の中で実践する形で、ウォーキングの他に何か上手い運動法は無いものかなぁ(苦笑)。
そういや、確か十年以上前の九州大学の英語入試問題だったか、「アルツハイマー型認知症が発現する徴候として、まず運動機能の低下が先立って生じることが判明した。」なる趣旨の内容の長文があったのを思い出しました。身体と心の在り様は、私達が普段思っている以上に密接に結びついているということなんでしょうね。
>恒川光太郎『滅びの園』
「仮想現実も歴とした一つの確かな現実」というモチーフは、花沢健吾『ルサンチマン』(2004~5)やNHKアニメ『電脳コイル』(2007)、最近作なら現在NHKでドラマ化&放映中の暴力とも子『VRおじさんの初恋』(2021)などで繰り返し登場し、今ではすっかり一つのテンプレと化した感があります。しかし本作ではそこから更に一歩進んで、「誰か一人の仮想現実が他者の(本作では全人類の)現実生活とトレードオフの関係にあるとしたら?」との思考実験を持ち出して来ているところが(御大の仰る通り設定の詰めが甘く、構成や心理描写もお世辞にも上手いとは言いかねますが)、私には新鮮に感じられました。要するにドストエフスキーが提起した例のコレ(↓)を実際に行ったらどうなるか?ということですよね。
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「… そうとも、人から邪魔されるにいられるためなら、ぼくはいますぐ全世界を一カペーカで売りとばしたっていいと思っている。世界が破滅するのと、このぼくが茶を飲めなくなるのと、どっちを取るかって? 聞かしてやろうか、世界なんか破滅したって、ぼくがいつも茶を飲めれば、それでいいのさ。…」
(ドストエフスキー/江川 卓訳『地下室の手記』新潮文庫)
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本作では「主人公vs.他の人類全て」― それぞれが掲げる「希望」を旗印に死闘を繰り広げる「神々の戦い」が描かれましたが、この設定には色んな対立軸のヴァリエーションを生み出す余地がまだまだあるように素人ながら思います。嘗ての推理小説の“三億円事件の真相”とか、SFなら“方程式もの”のような競作群が生まれていって欲しいなあと個人的には思いますね。