なんか「娘が不良になったらどうしよう?」と気が気で無い過保護ママみたいですね>ユキ
今まであの変身バンクで、見晴山の奥深くで人知れず名乗りを上げていたのかと思うとジワジワ来るものがあるなww。
>率直な感想は「大学というよりは規模がデカくなった幼稚園」
読了しました。御大の感想に全く同感ですね。卒業生の半数近くが進路未定=行方不明になる大学って何だよww。このような闇鍋カオスな「天才の原石集団」が世間に存在を許されている間は、日本という国もまだまだ安泰な気がしますね(笑)。
ちょっと面白かったのは、中には「燃えるような情熱を持ってモノづくりをしているわけではな」く、かつ「モノづくりは人生そのもの=他にやりたいこともない」とか「美術とは腐れ縁的存在」とまで言い放つ藝大生も交じっていたことですね。ちょっと分かりにくい喩えですが、先祖代々クリスチャンホームに育った人の「キリスト教信仰に対する受け止め方」に似たニオイを私は感じました。
>「要するに藝大の教授はアーティスト、あるいは職人であっても、指導者ではないんですよ(p.236)」
リアル滝先生だなぁ(納得)。
>西野智彦『ドキュメント異次元緩和』
>日銀の人、だいぶ机上の空論で進めてた感じがする
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[日銀総裁総裁内定時]
日銀幹部:「万一、[インフレ目標の]2%を達成できない場合のことも想定しておく必要があるのではないでしょうか」
黒田総裁:「いや、[2年後までには]必ず達成できるから」(本書p.40~41)
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[それから十年後・総裁退任直前時]
野党議員:「就任時の目標を達成できなかったのだから、結果として失敗と受け止めるしかない」
黒田総裁:「2%を達成できていない理由は、物価や賃金が上がらないことを前提としたノルム〔社会規範〕が定着し、その転換に時間がかかっているからだ」(同p.213)
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「プロだから、分かるから」とドヤ顔で目標達成を公言しておきながら、いざ出来ないとなると一転、「国民がアホだから」とばかりに開き直ることが許されるというねw…。それでも二期十年を勤め上げ、花束と数千万円の退職金を手に悠々と職を辞したっていうのが、いかにも日本社会あるあるですね(苦笑)。少なくともこの点ではマルクス経済学による金融分析に軍配が上がると言えるんじゃないかな。嘗て金本位制が主流だった時代、マルクスは貨幣を「金や銀などの具体的事物に裏打ちされた特殊な商品」だと見做していましたが、その認識は現代の管理通貨制度の下でも変わらず当て嵌まるように私には思えますね(↓)。
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…ところが、貨幣の量が貨幣の購買力を決定し、したがって物価を決定するという説が、古くからおこなわれた。これを貨幣数量説という。けれども流通手段の量がかりに増加しても、流通手段が使用される平均回数がそれに応じて減少すれば、流通手段が必要量を超えたことにはならない。また流通手段が必要量を超えたばあいは、よけいになった分は流通手段であることをやめて引上げられるだけである。こう考えただけで、貨幣数量説のまちがいは明らかであろう。貨幣の購買力をきめるものは、商品の価値に対する貨幣つまり金(きん)の価値なのであって、社会にある貨幣の総量なのではない。(日高晋『経済学 改訂版』岩波全書1988 p.63~64より)
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>YouTube上にあるエクササイズやダンス
cosmos様、アドバイスを頂き誠に有難うございます。そう言えば以前下の娘(現高3)もそんなこと言っていましたね。Z世代かつ美容に関心のあるお年頃でもありますし、今度色々レクチャーを受けてみますかw(笑)。
>「斬新かなぁ?」と疑問符が付きます
分かりにくかったでしょうか? 私が「新鮮」と評したのは現実における彼我の利害が対立する状況ではなく、前にも書いたように「誰かの仮想現実」と「他者の現実生活」とが天秤にかけられたシチュエーションを指します。誰かが個人の趣味の範囲=他人に迷惑が掛からない範囲で仮想現実の世界に引き籠っていたとして、大抵の人はその様子を「その人にとってはそれが紛れも無い現実で、それ無しには生きられないのだから。」と生温かい目で許容するかと思いますが、その行為によって他者(要するに自分)に具体的な実害が及ぶことが明らかとなった途端「造り物の世界にいつまでも浸っているのは甘え!」とばかりに手の平を返し、糾弾する人が殆どだろうと私は思う訳です(勿論私も含めて)。要するに「仮想現実も現実」と一貫して言い続けるためにはそれなりの覚悟が求められるのではないか、『滅びの園』は、(作者が意図していたかどうかは兎も角)VR礼賛の風潮に対するアンチテーゼを提起しているのではないか…そんな気がするんですよね。