MENU

スレッドNo.334

Do you see the boy ? =「ずうずうしいぜ、おい」

>夏目漱石の「吾輩は猫である」なんて、ほぼエッセイ

「自分自身を陽キャ(迷亭)と陰キャ(苦沙弥先生)とに分割し、その有様を別の自分(猫)が外から観察している」構造全体を、更に著者である自分(漱石)が描き出している…という、エッセイ風の外見とは裏腹に創作として割と複雑な入れ子構造をしているんだな、あの作品は…と、文学青年崩れだった死んだ私の父親が、私が小学生の時分に話してくれたのをふと思い出しました。


>自由意志の否定というよりストイシズムの考えに近い

 確かに。ヨースタイン・ゴルデル『ソフィーの世界』でもそんな風に紹介されていましたねぇ(↓)。

◆◆◆

 アルベルト「神は人形遣いではないってことだよ。糸を引いて何がどうなるのかを決めるのではないんだ。人形遣いは外から人形をあやつるから、彼は『外なる原因』だ。でも神はそういうふうに世界をあやつらない。神は自然の法則をつうじて世界をあやつる。だから神すなわち自然は、この世に生じてくるすべてのものの『内なる原因』なんだよ。ということは、自然界の全ては必然的に起こっているということだね。スピノザは決定論的な自然のイメージをもっていたんだ」

 ソフィー:「前にも同じようなことを言わなかったっけ?」

 アルベルト:「たぶんストア派のことだろう?ストア派も、すべては必然的に起こると言っていた。だから、すべての出来事を『ストイックな落ち着き』でむかえることが大切だと考えたんだ。人間は感情に引きずられてはいけない。スピノザの倫理学も、うんと短く言ってしまえばそういうことなんだよ」(前掲書p.320より)

◆◆◆

 なお、哲学者の國分功一郎氏によると、スピノザは「釣りの達人でもあり、人生のさまざまな楽しみに通じていた人」らしく、敵対者をも思想の違いを超えて惹き付けるだけの人間的魅力を備えた人物だったらしいですね(100分de名著 スピノザ『エチカ』より)。少なくとも「哲学者」と聞いて私達が脳裏に浮かべるような、「眉間に皺を寄せて訳の分からぬことを一人ブツブツ呟いている」タイプからは遠くかけ離れていたようです。


>映画版でも渡されてた

 記憶に無いなぁ…そもそも劇場版を全部観たかどうかすら覚束ないですからまぁ当然か(苦笑)。アニメでも絵葉書の描写が省かれていないのでしたら、あすか先輩は原作通り、可愛い後輩の久美子に対しもう少し「前のめり」な態度を示しても良かったんじゃないかなぁとは思いますね。

 まぁ私がざっと確認しただけでも、アニメの描写は原作から大なり小なり改変されていたり、時系列が入れ替わっていたりするものが目立つなぁという印象なので、今更ではあるのですが(直近のエピソードだけ取ってみても、久美子が麗奈に「大好きのハグ」をするのは、原作では深夜では無く他の通行人の視線が突き刺さる早朝の駅前だし、緑輝の「種まき」発言は、原作ではファミレスではなく部活帰りの音楽室前で行われるし、鎧塚先輩の出る音大のコンサートに大挙して行くのも原作では九月ではなく夏季合宿前(プールの翌日)で、しかもコンサート終了後の久美子とみぞれ先輩とのやり取りは完全なアニオリだったり、と枚挙に暇がありません)。


>中世古先輩結構やべー奴

 うろ覚えですが、確か原作のスピンオフで、中世古先輩があすかに対し「ライクじゃなくてラブ(©高坂麗奈)」の感情を抱いていること(そしてあすかの側も満更嫌がっても無いこと)が描かれていたと記憶していますね~。


>烏は主を選ばない
>弟は素でやってると思う

 恐らく次回で明かされるかと思いますが、そんな若宮ですら足元にも及ばない「演技派」― というより、演技しているという自覚自体が本人に無い、いわば生まれながらの「詐欺師」が中に一人交ざっているんですよねぇ…まぁ誰の事を言っているかは大方想像がつくかとは思いますが(苦笑)。


>今週の猫

 もう少し話数を重ねるかと思いましたが、思いのほかハイスピードでモンペキャラからツンデレキャラへと変貌を遂げつつあるようで何よりです…それにしても、文字通りの畜生(=犬猫)に読み書きやら集団生活の心得やらを一から教え込まなければならない現場の教師の苦労に対しては、心底同情申し上げます(笑)。

編集・削除(編集済: 2024年06月18日 00:21)

ロケットBBS

Page Top