大山鳴動して鼠一匹>台風10号(サンサン)
(↑)但し四国に限る…四国を縦断しているにも拘わらず、まさか家のシャッターを下ろす必要すら無かったとはなぁ…。
>相変わらずのロシア推し
来住英俊司祭は南直哉禅師との対談本『禅と福音』の中で「キリスト教は伝統的に加害者側(=原罪を帯びた私)からものを考える傾向にあり、被害者側(=身に覚えのない悪に見舞われた私)の視点―いわゆる神義論的視点―からの探求が弱いとの印象を常々抱いている。」なる趣旨の発言をされていますが、その点私も同感です。
だから別段ロシア推しという訳では無くて「神の似姿として創造されたはずの人間がどれほどの悪を行えるものなのか?」の最も大規模かつ強烈で、しかも現代に近いサンプルが偶々ロシアに存在していたので、「この道の者」の端くれとして取り敢えず「実際どんな感じだったのか」まずは知っておくべき必要があるのではないかと思って今回一読してみた次第です(困ったことにカトリック・プロテスタント問わず、二十世紀以前に成立した(つまり世界大戦もアウシュヴィッツも経験していない)神学体系を読んでも全く心に響いて来なくなった今日この頃ですw(苦笑))。
>正直ガッツリしたものは食傷気味
同感ですね、佐藤優氏の著書のどっかで「ソルジェニーツィンは書き過ぎなのである。」と書いていましたっけね。当事者ならではの生々しくも苛酷な収容所体験の数々をあれもこれも開陳したくなる気持ちは痛いほど分かりますが、詰め込みまくった結果却って読者を遠ざける結果になっているのではないかと私は感じました(2006年に文庫化されたみたいですが、現在は絶版みたいですし)。
>今週の猫組
>以前のユキだったらまゆを焚きつけるようなことは絶対に言わなかった
以前のユキなら「二度とまゆに近づくな、さもなくば実力行使も辞さぬぞ」とばかりに、「なしつける」べく知覧さんのもとに単身赴いたことでしょうね。今回のエピソードでは、双方の些細な「ボタンの掛け違い」が解消された和解そのものよりも、寧ろユキの成長ぶりの方が私には印象に残りました。
>こっちでも米が売り切れてて草
南海トラフ巨大地震への注意喚起を受けて非常食の乾パンとかアルファ米が売り切れる、というのなら私も理解出来るんですが、なぜ生米を買い占めるのかが全く分からないですね。そんな大災害では恐らく高確率で大規模停電が発生し、結果として炊飯出来ないんじゃないかと思うんですが…まぁコロナ禍でのトイレットペーパーの買い占めを促した理由と同じで「自分はデマだと思っているけれど、デマを信じている人が少なからず居るみたいだから仕方無く」なのかもしれませんが(↓)。
https://www.fnn.jp/articles/-/363841
>今週の読書
●マーセデス・ラッキー『裁きの門』
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『女神の誓い』に続くシリーズ2作目。話運びは1作目よりこなれてきたという印象ですが、今回は敵キャラ周辺の描写が貧弱なことに加えて、やや展開が間延びして見えるのが難点かな。まぁ三分の二くらいまでは割とワクワクしながら読んだので、世界観の構築含めて筆力は間違いなくあるんですが。
なお巻末で「主人公二人を讃える歌の歌詞」が延々40頁に亘って掲載されているのには草ww(実際に曲もついてCD販売されたっぽい)。
●三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』集英社新書2024
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そういやこの間NHKのラジオで著者自身が何か喋っていたな~…と思いつつ購入。そもそも明治・大正期のエリート&庶民のそれぞれの読書習慣が如何なるものだったかから縷々説き起こした、思いのほか骨太な本でした…とはいえ結論だけを知りたいのであれば最終章だけ読めば事足りるかな(↓)。
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整理すると、明治~戦後の社会では立身出世という成功に必要なのは、教養や勉強といった社会に関する知識とされていた。しかし現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった。
つまり、1980年代以前に長時間労働に従事する人々が本や雑誌を読めていたのは、それが労働や社会的地位上昇の役に立つ「知識」を得る媒体だったからだ。しかし1990年代以降、労働や成功に必要なものは、自分に関係のある情報を探し、それをもとに行動することとされた。(本書 p.240~241より引用)
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要するに「教養書が読まれない(逆に自己啓発書は読まれる)」理由は、「現代社会は嘗てのように(ノイズだらけの)周辺知識も教養も求めておらず、仕事に直結する情報とそれに基づく具体的行動だけを求めているから」だと著者は主張したいようです…ふむ、そこは何となく分かるような気がします(まぁそれに続く主張の「全身全霊を傾けるのでは無く、半身で働くことのススメ」の件は、それが仕事場で許されるのならそもそも苦労しねェよとは思いましたが(苦笑))。
とはいぇ、以下の文章なんかは読書好きとして割と共感した部分でしたね(↓)。ノイズを許容する「心のゆとり」は絶えず持っていたいものだなぁ…。
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本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。自分から遠く離れた文脈に触れること ― それが読書なのである。そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕が無い。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がなくなるからだ。(本書p.233~234より引用)
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>ロシアはスターリンといいプーチンといいなんで皇帝みたいに仕切ってんのか
>本をピックアップしてストック中
(↑)プレゼン楽しみにしています。今週は御大がプレゼンされた本を読む時間が無く何とも残念です…夏期講習会が終わったと思ったら来週の日曜はまたもや出勤日なんだよなー(泣))。