いろはに「私も好き」って言わせなかったのは上手いな。
>私、悟くんといるとすっごくワンダフルなの。普通のワンダフルじゃなくて特別なワンダフルなの!
>自分の気持ちを自分の言葉で伝えるいろは
未就学女児の代表たるいろはが、「(恋愛的な意味での)好き」という未知の概念を自分なりに言い換えて理解しよう(そして悟に想いを伝えよう)と藻掻きながら成長していく有様が丁寧に描かれていましたね、教育アニメの面目躍如というところでしょうか。しかしメイン視聴者らのその人間的成長は、同時にプリキュアシリーズからの「卒業」を意味するというのも制作者にとっては辛いところですが(笑)。
>今週の読書
今週も日曜出勤だったので、一冊だけプレゼンしますね。引用が多い点はお許しくださいw。
●高島俊男『漢字と日本人』文春新書2001
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…日本が中国から漢字をもらったことをもって、恩恵をうけた、すなわち日本語にとって幸運なことであったと考える人があるが、それもまちがいである。それは、日本語にとって不幸なことであった。…… 日本語は、みずからのなかにまだ概括的な語や抽象的なものをさす語を持つにいたっていない段階にあった。日本語が自然に育ったならば、そうしたことばもおいおいにできてきたであろう。しかし漢字がはいってきた ― それはとりもなおさず日本語よりもはるかに高い発達段階にある漢語がはいってきたということだ ― ために、それらについては、直接漢語をもちいるようになった。日本語は、みずからのなかにあたらしいことばを生み出してゆく能力をうしなった。(p.23~25)
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人類は数万年前から言語をもちいてきた。そのながい歴史の中で見れば、文字が発明されたのはごく最近のことである。また、地球上のすべての言語が文字を持つわけではない。文字を持つものはむしろ少数である。それら文字をともなわぬ言語は十分にその役割をはたしたし、現にはたしつつある。文字なき言語は決して不備な言語ではない。すなわち、文字は言語にとって必然のものではない。ひとり日本語のみが例外である。その語彙のなかば以上は、文字のうらづけなしには成り立たない。
もとより最初からそうであったのではない。漢語伝来以来以前数千年、あるいはそれ以上にわたって、日本語は、音声のみをもってその機能を十全にはたしていたはずである。文字のうらづけなしに成り立たなくなったのは、千数百年前に漢語とその文字がはいってからのち、特に、明治維新以後西洋の事物や観念を和製漢語に訳してとりいれ、これらの語が日本人の生活と思想の中枢部分をしめるようになって以来である。
現代の日本においては、ごく身近で具体的なものや、動作や形容には、本来の日本語(和語)がもちいられる(みちをあるく、やまはたかい、etc.……)。これらはもちろん音声が意味をになっている。耳できいてわかる。文字のなかだちを必要としない。しかし、やや高級な概念や明治以後の新事物には漢語がもちいられる……。これらの語も無論音声を持っている。けれどもその音声は、文字をさししめす符牒であるにすぎない。語の意味は、さししめされた文字がになっている。たとえば「西洋」を、ひとしくセーヨーの音を持つ「静養」からわかつものは「西洋」の文字である。日本人の話(特にやや知的な内容の話)は、音声を手がかりに頭のなかにある文字をすばやく参照する、というプロセスをくりかえしながら進行する。
くりかえしのべてきたごとく、もとの漢語がそういう言語なのではない。漢語においては、個々の音が意味を持っている。それを日本語の中へとりいれると、もはやそれらの音自体 …… は何ら意味を持たず、いずれかの文字をさししめす符牒にすぎなくなるのである。
しかも日本語は音韻組織がかんたんであるため、漢語のことなる音が日本語ではおなじ音になり、したがって一つの音がさししめす文字が多くなる(たとえば小、少、庄、尚、etc.…はいずれの音も「ショー」)……日本の言語学者はよく、日本語はなんら特殊な言語ではない、ごくありふれた言語である、日本語に似た言語は地球上にいくらもある、と言う。しかしそれは、名詞の単数複数の別をしめさないとか、賓語[≒目的語]のあとに動詞が位置するとかいった、語法上のことがらである。…… しかし、音声が無力であるためにことばが文字のうらづけをまたなければ意味を持ち得ない、という点に着目すれば、日本語は、世界でおそらくただ一つの、きわめて特殊な言語である。音声が意味をにない得ない、というのは、もちろん、言語として健全なすがたではない。日本語は畸型的な言語である。と言わざるを得ない。
では、日本語は健全なすがたにかわり得るのであろうか。日本語は畸型のままで成熟してしまった言語であるから、それは不可能である、とわたしは考える。これをしいて完全に正常なからだにしようとすれば、日本語はきわめて幼稚なものになってしまう。…… 漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である。それも、からだに癒着してしまった重荷である。もともと日本語の体質にはあわないのだから、いつまでたってもしっくりしない。しかし、この重荷を切除すれば日本語は幼児化する。へたをすれば死ぬ。この、からだに癒着した重荷は、日本語に害をなすこと多かったが、しかし日本語は、これなしにはやってゆけないこともたしかである。腐れ縁である。(終章:やっかいな重荷(p.240~246)より抜粋引用)。
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著者は中学文学専攻の学者さんみたいですが、一般向けの啓蒙書を数多く手掛けられた方のようですね。
確かに我々日本人が、耳にした「音声」を、頭の中で素早く「文字(=漢字)」に置き換えてその内容を把握するなどという“離れ業”を、日常的にかつ半ば無意識のうちに行っている(例:「コーコーモノノコーコーセー 」⇒ 「孝行者の高校生」)というのは考えてみれば凄いことなのかもしれない。しかしそれはむしろ日本語が、文字を介さず音声だけで意志疎通を行うことがほぼ不可能な言語へと「ガラパゴス的進化」を遂げてしまったが故の、いわば苦肉の策である…そう著者は仰りたいみたいです。
これまで「日本語特殊論」は、兎角「ヤマト民族」なるものを特別視したがるナショナリズム礼賛者らに受けのいい妄言だとばかり私は思っていましたが、他言語と比較して極めて単純な音声構造と借り物の文字(漢字)という観点から日本語の特殊性(優位性に非ず)を論じている文章は初めて目にしたので、個人的には大変勉強になりました。
>よく日本人は社会人になると勉強しないみたいなこと言われるけど「やってるよ」って思う
同感です。私がこれまで渡り歩いた中小企業では、確かに大手企業のように研修会あるいは資格取得に向けた勉強会こそありませんでしたが、公立の中・高指定の教科書は数年ごとに必ず改訂されますし、また入試制度の見直しに伴って出題形式も大きく変動しますし、結局現場の講師一人ひとりが己の授業スタイルをこまめにアップデートしていかないと忽ち生徒減少 ⇒ おまんまの食い上げへと繋がってしまうため、勉強したくなくてもせざるを得ないというのが正直なところですね(泣)。
>足利将軍たちの戦国乱世
裏切り・寝返り・手の平返しが日常茶飯事過ぎて、足利将軍にも大名にも誰ひとり「個性的な」人物が居ませんでしたw(苦笑)。確か『菊と刀』でしたっけ、「主君に終生忠義を誓うのは家臣の務め」なる儒教の教え(?)を文字通り実践したのは、日本史広しと雖も「中国大返し」で明智光秀を討伐した羽柴秀吉と、かの「忠臣蔵」で名高い四十七士のたった二例しか無い、とか書いてあったと記憶していますが、それが実に「腑に落ちる」読書でした。