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スレッドNo.494

第一条「プリルンはキュアアイドルを守らなければならない。」

 「キュアアイドルを守りたい」との切なる願いをが叶えるための代償とはいえ、うたとの想い出を完全に欠いたままというのは…何と言うか、ロボットが自身に組み込まれたプログラムにただ盲目的に従っているかのような“非人間的な”ニオイを感じますね。


>まさかの黒白先輩リスペクト

 プリルンとメロロンの場合は、変身時の名乗りの通り「白黒」の順番の方がしっくりきますかね。あと初代と違って配色がそのままキャラクターの内面を表しているのも面白いですね(まぁ劇場版映画『雪空のともだち』の描写も相俟ってか、キュアホワイトからは割と“黒い”印象を受けますがw(苦笑))。


>お前誰だよ!?
>実質第3形態

 二人とも遠からず転入してくるんだろうなぁ(白目)。


>志望校のレベルを下げられない人
>自己イメージと結びついている

 そういう人の中には「何が何でも志望校に合格する」ため二浪三浪する人も珍しくなかったりするのですが、スポンサーである親は勿論、もろに悪影響を被るのがその弟妹なんですよねぇ~。ある日親から「知っての通り莫大な予備校代やら下宿代やらで兄ちゃん(←私が目にしたケースは大抵が男)が金を食い潰した結果、お前には地元の国公立大に進学する(無理なら大学進学を諦める)しか選択肢が無い、許して欲しい。」と真顔で宣告された、なんて話も職業柄よく耳にしますね。


>今週の読書

 ● 鹿島茂『パリの王様たち ユゴー・デュマ・バルザック 三代文豪大物くらべ』文藝春秋1995
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 よくもまぁ革命の余韻冷めやらぬフランスで、こんなにも破天荒で型破りな傑物が同時代に三人も揃ったものだなぁ(呆れ)。それぞれ印象に残った箇所を一部分書き出してみましょうか。

○ オノレ・ド・バルザック ⇒ 父親のコネで法科大学卒業後の就職先が既に決まっていたにも拘わらず、突如「俺は文学で身を立てる」と宣言するんですが、これってこないだ読んだ『作家刑事 毒島の暴言』の登場人物そのまんまですねw(↓)。

 … ところで、バルザックがこれほどの強い意志をもって文学修行の生活に入ろうと決意したからには、彼の頭の中にはさぞや多くの思想と感情が渦巻き、表現されるのをいまや遅しと待ちかねているにちがいないとだれだって想像するだろう。どう表現するかはひとまずおくとしても、少なくとも、何を書くのか、あるいはどのジャンルの作品を書くかぐらいは決まっているものと考えるだろう。ところがである。これがなにひとつ決まっていないのだ。…… ようするに、バルザックの頭にあったのは、公証人や代訴人ではなく文学者になりたい、そしてそれにより有名になり、栄光と富を勝ち取りたいという願望だけなのである。もちろん、なにか漠然とした表現願望はあるのだが、それがなんなのかは本人にもさっぱりわからない。だから、いざ自由を与えられ、有名になるための「なにか」を書かなければならないとなると、そのとたんに途方にくれてしまうのである。これは、今日、文学雑誌の新人賞で一発当てて、マスコミに躍り出ようということしか考えていない若者とすこしも変わらない。はっきり言って、この時点では、バルザックは意志こそ強固だが、その意志が支えるべきなんの実体もない有名病患者の一人にすぎないのである。…… [そして苦心惨憺の挙句、漸く8カ月後に完成した処女作の韻文劇は母校の文学教授から「才能ナシ」と酷評されるも彼は全くめげることは無く]……輝かしい栄光と無限の富を約束されている超人的頭脳を公証人のような矮小な仕事に使うことは巨大な損失のように思われた。今回の失敗は、ただ韻文に自分が向いていなかったにすぎない。おそらく、小説ならば、こんどこそ、新しい文学を作り出すような傑作を生み出すことができるにちがいない。…… そのバルザックの部屋には、ただひとつの装飾品としてナポレオンの石膏像が置かれ、台座には「彼が剣で始めたことを我はペンで成しとげん」と書いた紙切れが張り付けてあったという。
 (本書第二章「理由なき確信」p.57~64より抜粋)。

―――

○ アレクサンドル・デュマ ⇒ 大ヒットとなった『三銃士』・『モンテ・クリスト伯』の印税をつぎ込んで造営したという「モンテ・クリスト城」に纏わる記述が凄まじい(↓)。

 [デュマの消費は北アメリカ太平洋岸のインディアン社会に広くみられる、威信と名誉とを賭けた贈答慣行であるポトラッチとそっくりである。何故なら彼の場合、]金銭は物品購入に用いられるというよりも、人をもてなすための饗宴で蕩尽されるからである。しかも、それは、ただの饗宴ではなく、ほとんど自分の財力の限界に挑戦するような、投資効率を一切無視した、破産するためとしか思えないような饗宴 …… である。デュマはサン=ジェルマンの森全体を買い取り、ここにイギリス風庭園を造り、ルネッサンス風の大邸宅と野外劇場とあずま屋を設けたのである。…… モンテ・クリスト城では、玄関前の階段の上に掲げられた城主の銘句「余は愛す、余を愛する者を」のとおり、訪れる者は誰でも手厚いもてなしを受けた。なかには何年にもわたって居すわっている連中もいた。…… デュマの数多くの寵妃が贅沢ざんまいの暮らしを送っていたのはもちろんのこと、文無しの作家や画家も群をなして居候をきめこんで、皆寄ってたかって、デュマが稼ぎ出す何億何十億という金を食いつぶした。……
 (本書第七章「吝嗇と蕩尽の経済心理学」p.225~228より)。

―――

○ ヴィクトル・ユゴー ⇒ 本書を読む前と後とで、それまで私が(勝手に)抱いていた聖人イメージが180度変わってしまいましたw。本当にあの大傑作『レ・ミゼラブル』の中の人なの?(↓)。

 … 文体を変えたら、そのまま宇能鴻一郎になってしまいそうな、「裸の女」と題するこのおおらかな官能詩は、なんと、ユゴー72歳の時の作品である。もちろん、過去の回想などではいささかもなく、「現役」の性の喜びを率直に歌い上げたものである。…… ここにあるのは、いちおう詩の形こそ取ってはいるものの、実際には、若い女中を手ごめにして、「極楽、極楽」とうそぶく狒おやじの述懐以外のなにものでもない。…… ユゴーは83歳で死ぬ直前までこの調子で現役を通したから、関係した女たちの数は、無名の存在まで含めれば、千人切りなどというなまやさしい数字ではすまないはずである。……
 (本書第四章「愛の駆動力(その1)」p.110~111、p.128より)

 ところどころに著者の品性を疑わせるような下ネタが挟まる点にさえ目を瞑ればw(苦笑)、フランス近代文学史上燦然と輝く巨匠三人の“凡人の価値観・倫理観を遥か突き抜けた俗物っぷり”が存分に堪能出来る一品です。一読してみて損は無いかと。


>財産は民法典(ナポレオン法典)によって夫側が管理するので妻の持参金もその範疇

 ナポレオン法典(1804年制定)は「私有財産の絶対性(所有権の不可侵)を明文化したもの」だと前に聞いたことはありましたが…言われてみればあの法典は男尊女卑の色彩が濃厚なものでしたっけ。前にプレゼンした『ブッデンブローク家の人びと』の登場人物の女性達が総じて「家政に無関心」なのにも、当時の民法の規定からするといわば当然の帰結だったということか、成程ねぇ。


>とはいえ、隠れて使える金も当然あるし半ば黙認されていたようです

 さっき紹介した鹿島茂の著書によると、上記3人の中で「容姿や年齢を多少度外視してでも、由緒正しい貴族の血筋を持つ女性」に最も拘ったのはバルザックだったそうです。勿論“金づる”兼性欲処理の対象として有力なパトロンを求めたという側面もあるのですが(実際幾度となく負債を肩代わりさせている)、そういう実利だけでなく、どうやら「貴族という属性」そのものへの強烈な憧れがあったみたいですね(貧農の家系なのに、オノレ・“ド”・バルザックと貴族の称号である「ド」を勝手に冠するようになったのもその顕れの一つ)。


>ボッドキャスト2本

 ほぼ『ゴリオ爺さん』のネタバレになってて草w。つまり名の知れた作品であれば「梗概を5分以内の音声で纏めてください」なんて芸当もAIを使えば今や朝飯前ってことか。タイパ重視を推し進めるならこっちの方がよっぽど「効率的」だと考える人がこれから間違いなく増えていくんでしょうねぇ…まぁ、私は今まで通りテキストをチマチマ読んでいくつもりですけれどw。 

編集・削除(編集済: 2025年06月16日 23:02)

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