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スレッドNo.520

???「タナカーン、あなた疲れてるのよ。」

 知ってか知らずか、自身の「動画編集ミス(&撮影時の注意喚起ミス)」をうたに責任転嫁してしまうぐらいには疲れていますね。相変わらず仕事量は右肩上がりで増えていますし… 大丈夫かしら(苦笑)?


>キュアチューブはじめました!

 今回のエピソードは、メタ的にはメイン視聴者(未就学女児)に対して「夏休みでいつもより自由な時間もあることだし、うた達みたいに普段はやれない新しいことにチャレンジしてみよう!」って呼びかけている感じでしょうか。


>「無年季的質地請戻し慣行」
>簡単に言うと自分の土地を担保に金を借りたあとで、返せず質流れになった場合でもこの慣行を使っていれば何年後、何十年後でも金を返せば土地の所有権を戻せる仕組み。

 仰る通り、幕府が正式に定めた法律では無いのかもしれませんが、1643年の『田畑永代売買禁止令』なる「タテマエ」を踏まえた形で、それを農村の現場で運用していくためのいわばグレーゾーン的な取り決めなんでしょうね。

 今回私が改めて疑問に思ったのは、そもそもどうして江戸幕府は田畑の売買を禁止したのかということでした。手元の高校教科書には「本百姓が没落し、一部の地主に田畑が集中して年貢が減少するのを防ぐのが目的だった」と書いてあるんですけれど、じゃあその土地持ちの地主への年貢負担を増やせば済む話じゃないの? ― そう思ってGemini(無料版)に投げた質問に対する返答を私なりに纏めたものがこちらです(↓)。

◆◆◆

 ● そのまま小作人に収まる場合が多いにせよ、本百姓が土地を売り渡す過程で耕作放棄地が発生することは避けられないため作物生産量が減少し、それは年貢の減少へと直結する。

 ● かといって地主の年貢負担割合を増やすのも以下の理由から難しい。

 ① 村落の運営や年貢徴収などの実務を担っている地主(庄屋・名主)を敵に回すことになるので、幕府や藩のお偉方は極力避けたかった。

 ② 江戸時代の年貢は田畑の面積や等級に基づいて定められていたため、土地所有者が変わっても年貢額そのものが変動しないのが基本原則だった。従ってこの伝統的な年貢徴収の仕組みを見直すような制度改革を行った場合、社会全体に大きな混乱を招く恐れがあった。

◆◆◆

 門外漢なので解答内容がどの程度正確なのかは評価しかねますが、個人的には十分納得がいく説明に思えました。御大の仰る通り、教科書などの信頼するに足る文言を読んでふと思い付いた疑問を深掘りしていく際に、AIは大変便利なツールのように思いますね。


>特に序盤は主人公が謎の高笑いしてたり、行動がいちいちぶっ飛んでるから意味不明

 へぇ~もう30年も経つんですねぇ。そういや当時『Gガン』大好きの友人にオルグされて、リアルタイムで1話だけ視聴しましたっけ。まぁ主人公が確かラストで放った「お前を○す」なるサイコパス発言にドン引きして3話どころか1話即切りしましたが、その判断も強ち間違ってなかったみたいですねぇ(笑)。


>知り合いからキャベツもらってそれを無理やり食べてたってエピソード

 「三か月の調査でもつらさなどまったく感じなかったのに、ここにきて、まさかキャベツで苦戦するとは思いもよらなかった。」・「キャベツはおいしい。だが、ひと玉一気に食べるものではない。」

 体験に裏付けられた実感の籠った一言ですねぇw(…何を読まされているんだろうw)。因みにちょっと前に仕事場の中学生に聞いてみると、「あぁ、あのシジュウカラの人でしょ?」との返事でした(学校の先生に勧められたらしい)。


>AIはすでに性能ではなく性格で選ばれる時代になっている

 「この道の者」の端くれとして喩えるなら、現代の学問水準やコンプラ視点からすると明らかな誤訳や不適切な言い回しを多々含みながらも、その訳文の簡潔さ・格調高さから未だに愛読者が絶えない「文語訳聖書」みたいなものでしょうか(私含む)。
―――
 「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。」(新約聖書 ヨハネ傳 第一二章 二四節) [※三浦綾子『塩狩峠』の冒頭にて引用]


>外面から内面が透けて見えるキリスト教文化圏の人々の方が、脅かされると感じる事が多かったかも知れない
>SNSの日本人が幼稚に見えるのは、内面が脅かされる事に対する欧米人との「年季の違い」によるものなのかも知れません

 cosmos様のこの指摘には私も同感ですねぇ。例えばヴォルテールの『寛容論』を読んでみても、彼の唱える「寛容」は (流石数多の宗教戦争を経たうえで生まれただけのことはあって)日本人が普通想像する「まぁお互い譲り合って仲良くいきましょう」みたいなナァナァな生温さとは無縁な、今まさに殺し合わんとして対峙する社会集団らの眼前で絞り出すかの如く紡がれた思想であることが伝わってきますから。

◆◆◆

 おお、仁慈の神を信奉する人々よ、あなたがたが非情な心をもっているとしよう。「神と汝の隣人とを愛せ」という言葉に、その一切の掟が集約される方をあなたがたは崇めながら、この正しく神聖な掟を詭弁と理解できない論争とでおおい隠してしまったとしよう。あるときは一字の新語のため、あるときはアルファベットのたった一文字のため、あなたがたがいざこざを惹き起こしたとしよう。ほかの民族の知りようもない二、三の言葉が言われなかったからといって、また儀式が行われなかったからといって、あなたがたが永遠の罰を下したとしよう。もしそのとおりなら、人類の上に涙を流しながら、わたしはあなたがたに言うであろう。「すべての人間が裁きをうけ、神がそれぞれの行為に応じて各人に報われる、その日にわたしといっしょに行ってみましょう」(中川信・訳 / 中公文庫版 p.162より)

◆◆◆

>侍タイムスリッパー
>時間旅行者の時代に適応する能力が高く描かれてます

 そうそう、主人公が幕末から現代にタイムスリップしたという「信じ難い現実」に(誰かから教えられた訳でもなく自力で)気付いてしまった後は無駄な悪あがきなど一切せず、今の自分に出来ることは無いかと懸命に頭を振り絞って試行錯誤していましたよね。その姿が逆に「武士(もののふ)の矜持」をリアルに浮かび上がらせていたように私も思いました。


>『悪と全体主義』
>人権は国家が保障するもので、国家に依存してる。つまり人権とはシステムが作り出した虚構

 最寄りの図書館では絶賛貸出し中でしたw。その代わりに、恐らく仲正氏がこの新書を出す切欠となった100分de名著のムック本(NHKテキスト2017年9月/ハンナ・アーレント『全体主義の起源』)が偶々手元にありましたので、そちらを読み返してみました(御大が引用されたのと同趣旨の内容はこの辺ですね↓)。

◆◆◆

 人権は万人にある、というのは幻想だったということです。人権を実質的に保障しているのは国家であり、その国家が「国民」という枠で規定されている以上、どうしても対象外となる人が出てしまいます。国民国家という枠組み自体も、強固なものではありません。民族という曖昧な(アーレント曰く、架空の)概念で崩せてしまうほど不安定なものであり、戦争や革命が起きれば、もはや何の役にも立ちません。…… いかに国際機関が頑張っても、どこの国にも所属していない人々を、安定的、継続的に守っていくことはできないのが現実です。(p.57~58より引用)

◆◆◆

 人権なるものは当初「人間が作り出した如何なる法によっても規定されるには及ばない、むしろ一切の法や権利の基礎となるべき権利」だと高らかに宣言されていたにも拘わらず、結局は法ないしは国家の裏付けが無いなら、単なる「絵に描いた餅」同然の蜃気楼めいた存在に過ぎないということが後に露呈したということか…成程ねぇ。

 そういや仲正氏が『悪と全体主義』以降に書かれた著作の中に、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を取り上げたものがあったので序でに借りて来ました(↓)。熟読してみて思うところがあったら、また感想を記しますね。https://a.co/d/3zPZUiY

編集・削除(編集済: 2025年08月11日 06:45)

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