徳川家康「百姓共は死なぬ様に生きぬ様にと合点いたし、収納申し付くる様に」(大道寺友山『落穂集』より)
>小作農(現代で言うと非正規労働者)になると状況によっては流浪民になってしまう
>そうすると村の荒廃や統治上の不安定さが増してしまうのでこれを抑えたかった
>所有=耕作=課税責任=村運営責任とすることで統治システムの安定化を図る。
成程…確かにそちらの方がより包括的というか、しっくり来る説明ですね。
改めて教科書に目を通してみると「耕地面積増(土地の開墾)が目的なら大規模経営が適しているが、収穫量アップには小農経営の方が向いていたから」とも書いていました(↓)。
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幕藩体制は封建権力が中間領主を排除して農村を直接に支配し、農民から貢租を収納することで成り立っていた。そのような封建権力は、たえず貢租の増大に関心を払っていたが、そのためにとられた方策が新田開発や用水・溜池の工事による耕地面積の拡大であった。…… 貢租を増大させるためには、さらに段当たり収穫量を増加させる必要があった。新田開発などの大規模な工事を行うためには労働夫役を徴発しなければならなかったので、家父長制的な大家族による農業経営を認めていたが、段当たり収穫量の増大には独立自営農民による小農経営が有利であったために、農民の自立化はますます進展した。…… こうして確定された独立自営農民を本百姓という。
(安達達朗 著『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世【教養編】』東洋経済新聞2016 p.302より引用)
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いつもの『東大のディープな日本史』の中でも「近世前期(17世紀)は、新田開発や農業技術の発展という後押しもあって、小農(家族構成は夫婦とその子供だけ・米なら年間10石程度を生産)の自立が進んだ時代」だったと述べられていますね。小作人としていやいや働かされるのと、小さいながらも「一国一城の主」として自律的に働くのとでは、そりゃあ後者の方が遥かに(上記引用にある通り)収穫率増に繋がるでしょうし、ゆえに支配する側にも「小農保護」へのモチベーションが生まれたんでしょう。
因みに、田畑永代売買禁止令が出された直接的原因は、どうもその2年前に勃発した「寛永の飢饉(1641~42):推計餓死者5万~10万人)っぽいですね(↓)。
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こうした窮状が、統治者の意識を「民政」へと向かわせました。…… 江戸時代には、全人口の8割以上を「百姓」が占めていました。彼らが倒れてしまったら、財政は成り立ちません。それゆえ、経営基盤の弱い小農を保護する政策を迫られたのです。…… そこで、…… 田畑永代売買の禁(1643)が出されました。田畑の権利の転売を封じることで、困窮した小農のさらなる凋落を防ぐ目的です。…… また、同年には田畑勝手作の禁も出され、本田畑への商品作物(木綿・菜種など)の栽培が禁じられました。小農を貨幣経済に巻き込まれないようにするためでした。
このように、寛永の飢饉を契機として、幕藩は年貢徴収を確実なものとするため、小農を保護し経営を安定される「民政」へと舵を切ったのです。
(相澤理『東大のディープな日本史 近世・現代篇』2016KADOKAWA p.102~103より引用)。
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国家財政の安定化(出来れば向上)・飢餓対策・治安維持など、諸々のベクトルが全て、江戸幕府が小農保護(というと聞こえは良いが、要するに「下々の者共よ有難く思え」的な上からの施し目線の最低限度の生活保障)を促す方向に向いていたということのようですね … で、それが江戸中期以降の貨幣経済の進展とともに制度と実体とがどんどん乖離するようになり、遂に明治期の地租改正によって保護主義から自由主義へ、つまり農村の格差を黙認からいわば放任する方向へ大転換するに至るという流れですね。
>これは歴史教育の「分かりやすさ」と「国民統合」への期待が影響しています。
>「戦後民主主義教育」では、戦前の支配構造や身分制の批判として「自立した農民=近代的主体」としての百姓像を提示。
>教科書はこの「善良な本百姓」像に乗せて、江戸時代を「共同体主義的な前近代」として描く傾向がある。
>その結果、実態の多様性や格差の存在が描かれにくい
成程なぁ … そういえば公立高校入試社会(歴史分野)の定番の記述問題の一つに「農地改革について簡潔に説明せよ」というのがあるんですが、そんな出題のされ方からも「本邦の歴史教育における関心の所在」が如実に現れていると言えるのかもですね。戦後長らく与党を担った本邦の保守政党の支持基盤となったのは「農地改革によって生まれた大量の零細自作農」でしたから、歴史教科書において江戸時代の本百姓体制を現代とシンクロさせて肯定的に描くスタイルが今なお続いているのでしょう。
あと御大のご指摘にある「教科書は教科書で一種のイデオロギーや物語で書いている」というのは誠にその通りで、先に引用した『いっきに学び直す日本史』にしても初版刊行が1973年という年代を反映して、マルクスの唯物史観を下敷きに記述されています(近代・現代【実用編】p.329にて「(日本の)経済発展」は原始制 → 古代制 → 封建制 → 絶対主義 → 資本主義近代制 → 帝国主義 → 社会主義制の経過を辿ったと説明されている)。
>お盆の読書
●オノレ・ド・バルザック『幻滅―メディア戦記』
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文学で身を立てることを志して「田舎の神童」がパリの出版界に彗星のごとくデヴュー。しかしそこは魑魅魍魎どもが跋扈する、打算と陰謀渦巻く魔界の巣窟だった。束の間の栄光と引き換えになけなしの財産を食い潰し、尾羽打ち枯らしてどうにか故郷に舞い戻るも、そこでまた大きなしくじりをやらかし家族と親友とに大迷惑を掛けたことを悔いて出奔。死に場所を求め彷徨う最中で偶然謎の神父(その正体は『ゴリオ爺さん』の大悪党ヴォートラン)に拾われ捲土重来を誓う … まぁそんなお話です。登場人物の8割は悪党ですが、半分は本人たちの資質、もう半分は誕生間もない粗削りの資本主義システムがそうさせているようなところがありますね。新聞・出版業がマスメディアの最先端をひた走っていた19世紀前半のフランスの世相を、当時の混沌たる政治体制ともども実感出来たように思います。
個人的には、良く言えば情愛に満ち献身的、悪く言えば退屈で一面的な善人サイドの描写とは対照的に、よくもこれだけ多種多様な悪党どもを活き活きと描写出来たものだなぁと感服しました。主人公リュシアンの立ち位置を含めて作者バルザックの自伝的要素が最も反映された作品とのことで、例えば普通の小説ではまず言及すらされない印刷用紙の改良を巡る発明の詳細な顛末を以てこの長編小説の掉尾を飾らせています(バルザックは印刷工場を経営・倒産させた経験あり)。なお作中に悪徳仲買人や、貰える金次第で記事内容をコロコロ変える売文家や、詐欺師まがいの書店主は数多く登場しますが、この当時はまだ文壇とかサロンとかも存在せず、また「創作物に対し出版社なり新聞社なりが権威づけの賞を与えて新人発掘&書籍の販売促進を図る」という現代ではお馴染みの手法もまだ確立されていなかったみたいですね。
ルックスだけが取り柄のお調子者の主人公リュシアンが、自業自得ながらも周囲からフルボッコにされる物語は読んでいて些か辛いし、しくじる度に懲りずに口先ばかりの後悔を繰り返すアホさ加減にも腹が立つし、そもそも長いしで一読は勧めません … が、「これぞ文学!」という胃もたれするかのごとき重厚感が味わえる作品なのは間違いありませんw(苦笑)。
>NHKスペシャル イーロン・マスク “アメリカ改革”の深層
>勘違いした中学生の「俺TUEEE」的エリート主義と大差ない
視聴しました…まぁ、抱いた感想のほとんどは御大に先に言われちゃった、って感じですかねぇ(苦笑)。
「選挙で選ばれていない官僚に行政を任せるなんて非効率の極み、そもそも民主主義が非効率そのもの!全てAIにやらせれば問題解決!」と声高に主張するTech Right達の「0か100か」・「敵か味方か」的な厨二病的デジタル思考が私には付いていけませんね。そもそも実体経済が貧弱な状況下で効率だけを追求したって意味無いでしょうに。運ぶべき荷物が存在しないのに流通手段だけ整備しようとするようなもので、本末転倒以外の何物でも無いっていうか。あと官僚を「選挙で選ばれていない」ことを理由に罷免するのなら、イーロン氏自身にも特大ブーメランで返って来る話ですよね(毒)?
番組によると、既に米合衆国では「効率化」の美名の下に政府機関の大量閉鎖・大量解雇 ⇒ イーロン・マスク傘下の企業への民間委託が進行中みたいですね。あと多産奨励主義(プロネイタリズム)を強力に推進すると共に我が家で絶賛実践中の政権幹部が登場したりしていましたが、あんたみたいな富裕層はいざ知らず、一般庶民にとって子育てがどれだけの経済的負担になるのか分かってんのって感じだったし… 嘗て本邦において、先の大戦中の「産めよ増やせよ」、小泉政権下で行われた「郵政民営化」、民主党政権下での「事業仕分け」などなどの鳴り物入りで実施された悪名高き施策の数々が悪魔合体したカリカチュアを見せられているような気がしました。
私は社会を運営していく上では、平時においては一見無駄に見えるある程度の“遊び(冗長性)”が必要不可欠だと考えているので、あくまでこのままのやり方を続けて行くなら、現政権のみならずそれ以降も米合衆国には甚大な後遺症が残るのではないか、と思わずにはいられませんでしたね~。
>読んだけど頭に入らなかった
あ、私だけじゃなかったんだ(笑)。仲正氏の論旨の展開に問題があるのか、そもそもフロムの記述に難があるためか、今イチ「説得されない」本でしたねぇ。例えば以下の記述とか(↓)。
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フロムから見れば、ルターや彼の教えに共鳴した人たちは、合理的に信じる根拠があるから信じているのではなく、自分自身をめぐる不安から逃れるため、神の恩寵を“信じている”のである。
突き放した見方をすれば、論理的な意味で「信じている」のではなく、神の愛によって救われる可能性があるという信条に強烈にコミットし、他を顧みないことで、不安を抑え込んでいるだけである。しかし当人にとっては、そうした内的状態が成立していることが、神が与えてくれた奇跡であり、信仰の根拠なのである。
「[フロムの著書内の]意味ある世界を構成する一部になる」というのは、「孤独な自己」を除去して、圧倒的な力を持つ神の摂理の道具になり切ること、正確に言えば、そうなったと信じる(思い込む)ことである。個体として見た自分は無力であるが、その無力な自分を放棄することで、自分が神の摂理の中で一定の役割を果たしている、という確信を持とうとするのである。…… フロムが指摘するように、“自己否定”して、より大きなものの一部になったつもりになることで、不安を解消しようとする人は、特定の信仰を持たない現代人にも少なくない。…… 後で見るように、こうした“自己否定”の心理がナチスのような全体主義の運動を生み出す母胎になるのである。(p.66~67)
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うーん、別にこの道の者の端くれとして擁護する訳じゃないけれど、元引用のフロムによるルターの信仰評そのものが「まぁ当たっている部分もあるのは認めるけれど、結局それってあなたの感想ですよね?」感が拭えないなぁw(苦笑)。その個人的感想を仲正氏がそのまま事実かの如く追認して「不安を抑え込んでいるだけ」だと断言するのにも違和感を覚えるし ― 大体「合理的に信じる根拠があるから信じている」という言い方からして語義矛盾ですし ― ましてやそういったプロテスタントの信仰の持ち方(この後で言及されるカルヴァン派の予定説も含めて)が「ナチスのような全体主義の運動を生み出す母胎になる」と言い切るに至っては相当な論理の飛躍がある気がします。何かナチズムという結果から逆算して「理屈と膏薬は何処へでも付く」的な論を展開しているように思えてなりませんわw(そもそもドイツ南部やオーストリアはカトリックが支配的ですしね)
>世界十代小説
このうち私は七つ読んでいますけれど、現代の視点からすると既に陳腐化したものも含まれているように思いますね。例えば『ボヴァリー夫人』の写実主義(だっけ?)は、発表当時は革新的だったのかもしれませんが、大して感銘は受けませんでしたし。これがいわゆる“ゾルトラーク化”ってヤツですかw(毒)。
>ハンナ・アーレントは徹底したリアリスト
(↑)その点は私も同意見なんですが、手元の参考書(小寺聡 編『もう一度読む山川哲学 言葉と用語』山川出版2015)の記述に従う限り、彼女が「必要なのは徹底したシステムの保守と運用」を主張したようには私にはあまり思えないのですよ。どちらかというと「人々が政治・社会のあり方を巡る共通の課題に関心を抱き、公共の場において特定の個人や集団の利益を離れた対話を行い、言葉で相手を動かし共同体を形成する(p.308~9より)」つまりシステムよりは「具体的な問題について地道に対話を重ね、一つ一つ積み上げていくこと」を重んじた人のような気がするのですが。