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スレッドNo.564

本(メモ帳?)と手が邪魔で見えにくいですが

 恐らく来週のゲストキャラ(生徒会長選挙立候補者)のフルネームは「甲斐 ちよ」でしょうか…本シリーズにおける本編に直接関わらない部分の設定は、マックランダー&クラヤミンダーの依り代の選定を含めて相変わらずテキトーですねぇ(呆れ)。


>本の内容が理解できなければそれは本のせいにしていい
>無理に最後まで読む必要はないし、読み飛ばしてもいい
>人間の記憶力なんて大したことがないので、あなたが憶えられないように他人も憶えられない

 私は水野氏のように「取り敢えず最後まで読んでみる」派ですけれど、本来読書なんて読んで楽しいから読むものに過ぎませんからね。こいつ何言ってるか分かんねーな、つまんねーなで読んでいる本を壁に投げても全然オッケーだと思います。

 長尺ですけれど掛け合いのテンポの良さと内容の深さとで、不思議と飽きずに観られる動画ですよね。私も読書への取り組みがカタくなる嫌いがあるなと常日頃感じていますので、色々勉強になりました。


>抽斗をたくさん作っておくと、何かのワードを聞いたときにそこから連想ゲームをしやすい

 それでいうと今回のエピソード関連で思い出したのは「虹の色は七色なのか?」問題ですね。
 (※ネタ元:鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波新書1990 https://amzn.asia/d/02kxShm )

 著者は丸々一章を割いてこのテーマについて詳細に論じていますが、内容を箇条書きで簡単に纏めると:

◆◆◆

① 文献および聞き取り調査の結果、欧米諸国(英・独・仏・露)において「虹の色は七色」だとの明確な社会的コンセンサスがあるのはフランスのみ(理由は不明)。それ以外の国は5~9色の範囲で、人(文献)によってまちまち。

② 但しニュートンが太陽光スペクトルを著書『光学』内でその色彩数を「七色」と解釈・記述したため、欧米諸国の科学および教育分野の著作や百科事典などでは、言語を問わず「虹は七色」と記述されるのが一般的。なお鈴木氏はニュートンが七という数を持ち出したのは「(七という数が)キリスト教神学の中で持つ神聖性(p,95)」故ではないかと推測している(ChatGPTは西洋の音階[ドレミファソラシ(ド)]の7音に対応させたとの説も紹介)。

③ 東アジア・東南アジア諸国(韓国・中国・ベトナム・タイ・マレーシアetc.)では日本同様「虹を七色」と見做しているが、果たしてニュートンの学術的影響によるものと言えるかどうかは不明(鈴木氏は「一応この地域の共通の文化習慣と考えてよいと思う(p.98)」と述べているものの、その説を裏付ける根拠は特に挙げていない。因みに本邦に関して朝日新聞はニュートン由来=幕末の蘭学経由説を採用(↓2015/2/4)。
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/kouetsu/2015013100001.html?msockid=3c77efaff91d69692908fad8f896688f

◆◆◆

 本書が出版された35年前ならいざ知らず、SNSがこれだけ普及した昨今だと容易に真相が解明しそうなテーマに思えるのですが、そうでも無いのかな(笑)。そんな事を考えつつ今週のエピソードを改めて見返すと、フランス人画家と思しき使い捨てキャラが描いた虹の絵は、何か6色っぽいですねぇ(橙と藍が分かり辛く、代わりに緑と黄の間に白(クリーム色?)がある)…まぁ大して深い意味は無いのでしょうが。


>歴史的に言えば現在の資本主義は福祉国家(福祉制度)と二人三脚で発展してきた

 ロシア革命(1917年)からソ連邦崩壊(1991年)までの70年余の間、資本主義諸国は「共産主義革命の拡大を阻止するべく、労働条件の改善や社会福祉の充実を余儀なくされた」訳ですからねぇ。この期間の資本主義陣営を構成する「分厚い中間層」が経済発展を遂げられたのは、実はソビエト連邦という存在が色濃く影を落としていたが故の、自由な経済活動に対する国家の様々な介入に拠るところが大きかったりするんですよね。


>『リバタリアンが社会実験してみた町の話』

 漸く読了しました。後日談込みにしても363ページは内容の割に分量が多過ぎるw(この2/3くらいで十分)。登場人物も覚え切れないので、せめて冒頭に簡単な紹介文でも載せて置いて欲しいですね。

 米国のとある田舎町に余所者のリバタリアンらが大挙して押し寄せた結果、それまでの牧歌的な佇まいが破壊され尽くし、彼らが去った後に町は少しずつ以前の落ち着きを取り戻しました ― みたいな話かと思ったら全然違いました。どうやらこの州(ニューハンプシャー州)は米合衆国建国当初から「国家による上からの統制(具体的には税金を課されること)が大嫌い」な土地柄で、その中でも本作の舞台となる田舎町(グラフトン)はその最右翼的存在だったらしいです。だからこそ彼らと立場を同じくする(と考えた)リバタリアンらは、あらゆる規制から解放された“フリータウン”を実現する格好のモデル都市となり得ると考えて白羽の矢を立てたっぽいですね。

 しかしそこまで税金を嫌うということは各自の自助努力がベースとなるため、公共サービスは軽視されてしかるべきということになります。町内唯一の歴史的建造物である教会堂は勿論、町役場や橋や生活道路が損壊しても町議会は予算を付けず放置したままで、警察署の建設すら却下され歴代の警察署長は自宅での取り調べ・犯罪記録の保管を余儀なくされています。集会所兼消防署は近年どうにか建てられたものの、消防車の運転を行うのはボランティアの一名のみで専属の消防士は不在。従って大規模な火災には全くの無力なため近隣の町々からの応援を要請しなければなりません ― こんな状況がここグラフトンではかれこれ150年以上に亘り続いているのだとか。

 当然年月を経過するごとに住民らの生活の質は低下し続けて過疎化が進み、森林と境を接する家々では野生の熊との遭遇のみならず住民への襲撃事例も頻発するようになります。しかし町行政は(費用・人材不足・自由を求める住民らからの反発の大きさを理由に)基本的に何ら熊対策を講じません。寧ろ襲撃された側の人間の不注意や怠慢を責めて熊の方を擁護する始末で、それはまさに性犯罪被害者に対し「襲われるような恰好をしている方が悪い」と糾弾するのと全く同じ構図でした。

 そうこうしているうちに十年余が経過し、理想郷の建設を目指して移住してきた第一世代のリバタリアンらは地元住民との軋轢や内部抗争、加齢に伴う衰え、病死や事故死などにより次々と脱落していきます。町の人口は(公共サービスの充実した近隣の町々の繁栄を尻目に)右肩下がりの長期低落傾向から脱却出来ないままです。そして迎えた2016年、遂に新世代のリバタリアンらがその活動対象をちっぽけな田舎町からニューハンプシャー州全体の「米合衆国離脱」という「遠大な計画」へと軸足を移したことで、グラフトンはモデル都市としての意味合いすら失ってしまいます。後には税金が安いという以外は本当に何の魅力も取り柄も無い、野生の熊が跋扈する「限界集落」だけが残されることとなりました。それでもグラフトンの住民は相変わらず町の予算の削減に勤しみ続け、本書末尾の2021年現在においても「一部の人々は、税金を低くしておけばもっと多くの人が町に来てくれると信じつづけている(p.352)」らしいです。

 正直「そりゃそうよ」という感想しか湧いて来ない読書でしたが、かなり極端なケースとはいえ「意地でも税金は払わない。己の理想を貫くためなら法廷闘争も辞さない」という生き方が町ぐるみで、しかも百年単位で許容されて来たという「事実」の方が私にとっては衝撃的でした。少なくとも律令国家が成立した奈良時代よりこのかた「国家の統制」を当然のこととして甘受してきた日本人の端くれにとっては、本書の登場人物らの思考回路や行動原理を理解は出来ても終始全く共感出来ませんでしたねぇ…いやぁ、やっぱり世界は広いわw(苦笑)。


>タタール人の砂漠

 あら、お目通し頂いて嬉しいですねw。ブッツァーティはだいぶ前に短編集(『神を見た犬』)を読んだはずなんですが、内容を全く覚えていないところを見るとやっぱりこっちの長編の方が出来が良いみたいですね(Wikiを見る限り「代表作」みたいですし)。


>『ババヤガの夜』

 ちょっと前に本屋で平積みになっていたので手に取ってパラパラめくってはみたんですけれど…何か暴力的な内容で(あと会話メインの余白多めの文体と言うこともあって)、買ってまで読むほどのものでも無いかなと判断してパスしましたw(苦笑)。

 本国では余り評価されていない(らしい)けれど日本で評価されている事例といえば、(ちょっと古いですが)私は『キャプテン・フューチャー』シリーズで有名なSF作家エドモンド・ハミルトンの中短編群を思い出すかな。本邦の『平家物語』にも一脈通じる「滅びゆく者に対する哀悼の情」が情感豊かに綴られている様は、確かに一般にフロンティア精神に富むと言われる米国人気質とはかなり異なっているように見受けられましたね(↓)。
 (※短編集『フェッセンデンの宇宙』エドモンド・ハミルトン作/中村 融 訳 河出書房新社2012
  https://amzn.asia/d/ir9ZVaE )

編集・削除(編集済: 2025年11月19日 18:59)

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