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スレッドNo.696

今年の東北地方の梅雨明け(8/4)って、四国の20日以上後だったんですね

>東北は冷夏か?ってくらいに涼しい。雨ばっか降ってる

 従来冷害を齎す元凶として敵視された「やませ」に、今年は逆に助けられてるってイメージで正しいんでしょうか?こっちは梅雨明け(7/12)以降大方一ヶ月近く、纏まった雨が降らず酷暑一歩手前の猛暑が続いているので、てっきり全国津々浦々どこも暑いとばかり思っていましたわ。加えて東北地方には台風も接近しているみたいですし、くれぐれも身辺お大事になさってください。


>今週の探偵の皆さんと愉快な怪盗団

 エクレールイリュージョン(影分身の術)の直後に目を回さないのは何ででしょう?「きらめきタイム(オッドアイ)」を経ないとグルグル目にはならない…ってことでしょうかねぇ。

 あと今回またしても「シャドウの力」なる謎ワードが追加されましたかw。まぁ次回るるかとくれあの仲違いに至る経緯が漸く明かされそうで、楽しみですね。


>『親友は山へ消えた』

 読了しました。正直著者の自分語りが過剰で気持ちが萎えましたわw(苦笑)。段違いに高スペックの相手と凡人の自分とを事あるごとに比較して落ち込んだり嫉妬心を抱いたり…まぁ人生の一時期だけならまだしも、心の健康を損なうほどに抱き続けるっていうのも甚だシンドイ生き方というか、エネルギーの無駄遣いだなってどうしても私は感じてしまいますね。

 あと作中でも何度か「非対称な関係」とありましたが、筆者にとっては唯一無二の親友でも、お亡くなりになったご友人(平賀淳)にとって著者はあくまで高校時代の友人の一人に過ぎず、数多存在した親密な人間関係の一つに過ぎなかったということがはっきり窺える本でもありました。本書のそこここに挟まれる「良い人エピソード」や葬儀への参列者の多さからしても、平賀氏はいわゆる「人徳ある人」だったんでしょうねぇ。


>「何者にもなれなかった自分」を「親友との物語を生きた自分」に書き換えているように見える
>自分に酔ってるだけじゃない? 自分を飾りたいだけじゃない?

 ほんそれ。最終章の墓参のエピソードなんて、普通ならもっと事実のみを圧縮して記して数ページで終わらせるところですよ(毒)。

 あと「自分を飾りたいだけ」と言えば、本書末尾に記される「墓参から帰国した直後の著者の言動」に典型的に表われている気がしますね(↓)。

◆◆◆

 遺族、知人、友人はじめ、関係者に無事の帰国と取材概要を報告すると、皆口を揃えて「淳に会えたんだね」と言う。(略) 私は「はい」とだけ言う。そのあとに続く「本当に会えたんです」とは言わない。それは口には決してしない。胸にしまう。それは、俺と淳だけのもの。体験というものはいつだって極めて個人的なものだ。これは心のペンダントだと思った。(「エピローグ」p.321より)

◆◆◆

 本当に「俺と淳だけの個人的な体験」だと言うのなら、それは墓場まで持って行くものであって本に書いて公開したりはしないんだわw(呆れ)。市井の一般人であるにも拘わらず、「著名人のマブダチ(真偽不明)」を公言することで自らを価値付けようとするメンタルの持主が時折いらっしゃいますが、読んでいてまさにそれが頭によぎりましたね~。

 あと登山繋がりで、序でにこちらも読んで見ました(↓)。

● 河野啓『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』集英社文庫2023
 https://amzn.asia/d/0anKWbHn

◆◆◆

 栗城史多さん。「夢」という言葉が大好きだった登山家。(略) 山を劇場に変えたエンターテイナー。不況のさなかに億を超える遠征資金を集めるビジネスマンでもあった。しかし彼がセールスした商品は、彼自身だった。その商品には、若干の瑕疵があり、誇大広告を伴い、残酷なまでの賞味期限があった。(「序章」p.9~10より)

◆◆◆

 第18回(2020年)開高健ノンフィクション賞受賞作。著者は短期間ながら取材対象として栗城氏と関わったテレビディレクター。

 内容を簡単に纏めると、本書では:

① サービス精神と自己顕示欲とが並外れて強いパフォーマー
②「時代の寵児」をプロデュースし、視聴率を稼ぎたいマスメディアの中の人
③ 日々新たなエンタメを求める移り気な視聴者

 この三者の思惑が噛み合って生まれた「劇場型登山」なる新エンタメジャンルおよび①の滑落死に至るまでの顛末とが、間接的にせよ①の死の片棒を担いだのは他ならぬ自分なのでは?と自問し続ける②の視点から縷々語られてゆきます。

 本書を読む前の栗城氏に関する私の知識としては、事故死の報道の際にネットで目にした「お騒がせ登山家」程度のものでしかありませんでしたが…まぁ、読んで見て大方予想通りの内容ではありましたw(苦笑)。参考までに巻末の別のテレビ関係者(報道畑)の方の解説を引用します(↓)。

◆◆◆

 … 河野さんはテレビ屋としてみずからの感覚を信じ、面白いと思った人物に肉薄し、自分の製作するテレビ番組の中で描こうとする。成功するテレビ番組をつくりたいという「野心」をもつ。「私の作る番組が一番早く放送される」ことをめざす。これはテレビ屋としての本能のようなものだ。

「山と一対一で向き合いたいから単独で登る」。栗城氏のこんな言葉を河野さんは一番最初に聞いてしまった。型破りの登山家に出会ってから彼の動きを黙ってみていられなくなった。栗城氏がテレビというメディアに積極的に登場した時期、いや、テレビが栗城氏を熱狂的に取り上げ始める比較的初期の2008年から2009年にかけて、河野さんは栗城氏を取材して、その結果をテレビ番組化しゴールデンタイムで放送した。…

 だが栗城氏の登山のスタイル、資金集めや公私の生活のありよう全般を知るにつれて、河野さんのなかに彼に対する疑問と不信感が徐々に醸成されていく。栗城さんは山に登る自分の姿を、自ら撮影(自撮り)していた。

 「だって、もったいないじゃないですか?こんなに苦労して登っているのに誰も知らないなんて」

 「エベレストで一番重要なのは、実は単独で登ることではなく、インターネット中継にあります」

 「単独無酸素でのエベレスト登頂はボクの夢。これをみているあなたはどんな夢を見ていますか?その夢をボクも応援したい。(略)」

 書き写しながらムラムラと僕の中に複雑な感情が湧いてくる。この人は登山家なのか、と。…… 自分の仕事にたとえてみれば、戦争地域に入って危険な場所を取材しながら自撮りやネット生中継をする、という極限的なことまで想像してしまう。多くのテレビ局やインターネット運営サイトが、栗城氏側の提案に乗って、あるいは栗城氏側に逆提案して。インターネット独占生中継番組を立ち上げて、あるいは立ち上げようとして、劇場型登山番組が現れた。

 「撮る」は英語でshootという動詞を用いる。かつ銃で人を撃つときの動詞もshootだ。撮ることは命を奪うと同義になる。日本語の「撮る」も「獲る」と同音だ。獲ることが相手から何かを奪うことになる。それを承知で獲られることを好む人々がいる。…… 長年テレビ報道に関わってきた身だからわかるのだが、僕自身も自戒と反省を込めて言う。取材者と非取材者が「共犯」関係になることがままある。表現したいという欲望が取材する側と取材される側の双方にあって、なおかつ観客がその「共犯」関係を支える役割を果たす。…… (p.375~377)

◆◆◆

 ただ、ここからはいつもの私の毒舌なんですが、こういったマスメディア関係者が表明する「自戒と反省」絡みのお気持ち表明そのものが、「私も内心では良くないと常々思っていました」的な、批判を受けた場合に備えての「予防線」というか「言い逃れ用の布石」に聞こえて仕方が無いんですよねぇ。

 あと加えて言うなら、パフォーマーを余りにもガキ扱いし過ぎているようにも見えます。栗城氏にしても享年35歳ですから少なくとも死亡時にはそれなりの大人ですし、「一方的に踊らされた」だけでなく、戦略的にマスコミを活用して「自ら進んで踊った」側面も当然あるでしょう(寧ろ本書はそちらの記述の方が多い気がする)。裏を返せば「最終的にそんな(破滅的な)生き方を選んだのは栗城氏自身」であり、冷たい言い方をしてしまいますが、自業自得ですねとしか私には思えませんでした。

 まぁ2冊に共通して言えるのは「世の中にはこれだけ自分とはかけ離れた思考様式の方がいらっしゃる」ということに改めて気付かせて頂いたという点でしょうかw。どちらも御大のプレゼンが無ければまず読まなかったであろう本でした。良い切欠を与えてくださり有難うございます。


>鉄鍋のジャン!
>30年前の作品を現代人が半ばツッコミ入れながらやっているという妙な感覚

 偶々私も視聴し続けていました。秋山醤のキャラ絵はこれまでネットで散見していたので見覚えはありましたが、ずっと「善良な主人公を一方的に敵認定して事ある毎に喧嘩を吹っかけてくる噛ませ犬的ライバルキャラ」だとばかり思い込んでいましたw。仰る通り、オリジナルそのままのアニメ化だと主にコンプラ的に時代錯誤が過ぎて観ていられなかったと思うので、それこそ上手い塩梅に「料理しました」って印象を受けましたねw。

 それにしても最新話ラストで、シャワーを浴びた後タンクトップ1枚で歩き回って…って、背中の傷全然隠す気無いやんけw(笑)。

編集・削除(編集済: 2026年08月11日 05:56)

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