失火 理蝶
見えないように
忘れるように
振る舞えば
心も現実もやがては歪んで
本当に見えなくて忘れて
しまえるものだと
思っていた
だけど僕の中には
まだ残っていた
燻ってはいたが
若い恋の火が
地に着きそうな
蝋燭の上で
赤い点となって
燃えていたのだ
その炎は
煌々と光りながらも
膿んでいた
心の壁を
静かに侵していた
そうして心にできた
ためらい傷は
もはや痛みはなくとも
その形で
言葉なく訴えている
お前は正しく傷つくべきだったのだ、と
僕はいくつもの景色を空想する
秋の通り
劇場の帰り
何気ないスーパーの匂い
その景色を全て
一人でなぞってゆく
僕は涙する
寂しさにではない
愚かしさに
僕は涙する
涙する権利すら
僕にはないと知りながら
それでも次から次へ
溢れてくる
この涙の収め方を
僕は知らなかったから
街の音、秋の気圧、気怠げな往来
無愛想なカットシャツ
無反省なネオンライト
奥行きのない瞳
電光掲示板
遅れた電車
白いため息
他愛もない話
つんのめる足裏
片方だけの手袋
地下鉄の風
なだれゆく人、なだれ込む人
その全てが僕に言う
お前は正しく傷つくべきだったのだ、と