評、11/11~11/14、ご投稿分、その1。 島 秀生
大変お待たせしております。
とりあえず半分行きます。
残り6作は、明日の夕方に。
●森山 遼さん「存在は その恐るべき 姿を 剝き出しにしてる」
思考の持続性があるので、つまりロジックは通っているので読めますが、一方でロジックだけのものって、詩として不完全なので、これが今後、どう具象とマッチングしてくるか、調和してくるか、でしょうね。
人って、誰も説教されるのキライだから、説教がましい書き方になるのは禁物ですし、一方で自己完結してしまうのも違う。まだ課題アリですね。
机上で内に向かって書くのでなく、外の対象物や、世情の題材に対して、その思考力を発揮した方が、つまり直接的論述ではなく、対象を挟んだ間接で思考の応用編を見せた方が、詩としてはうまく行くかもしれませんので、また試してみて下さい。
森山さんは私は初回ですので、感想のみになります。
●紅桃有栖さん「千葉の空」
1連と2連、対比で気づく空と雲の景色のところは、とてもステキだと思います。自転車でないと見えない風景があります。飛行機はもちろんのこと、スピードが早い車では見えない風景がある。そこをきちんと書いてくれました。
この1~2連は丁寧に書かれてて、いいなあと思うんですけど、後半がねー、やけに大雑把な言い方になりましたねー。
なにも4連で終わらなきゃいけないことはないので、後半の内容についても、気が済むまで丁寧に書き込めばいいのに、と思いました。
言ってる内容は悪くない、むしろ良いことを書こうとされてるんですけど、こんなにざっくりやられたら、読む方はスジもロジックも追えないです。
「短いのが詩だ」って観念は捨てられて、日常において人を説得するのと同様に、必要ならいくら長くなってもいいから、「人に伝わるように」を優先して、書いてみて下さい。
後半については概ねそんな感じなんですが、3連で「ホワイトノイズ」という新しい言葉を1つ織り交ぜようと試みは、悪くないです。
また4連も、1~2行目については良い言葉でした。
部分、部分では良いものを発揮されてるので、しばらくうちで書き込まれたら、進化すると思いますよ。また書いて下さい。
初回ですので、感想のみとなります。
余談ですが、国内線の西方向から羽田に向かう便は、いったん東京湾を東向きに突っ切ってから、房総の上空で、時計回りに90度(← 失礼しました。270度でした)旋回して、機首がまっすぐ南方向から北向きになるよう、姿勢を整えてから、羽田に侵入するので、房総の中央部から南半分上空をウロウロ飛んでるのは、たぶん国際線より国内線の方が多いと思います。
●荻座利守さん「小さな花束」
とりわけ4~6連のところが、凄くいいんですが、私が荻座さんが定義するところを正確には把握できていなかったり、また託されるのは、はたして「花」なのか、「花束」なのかを迷うところもあり、3連以下は下記構成に変えてみてはどうか、というのがちょっと浮かびましたので、記します。
小さな白い花束
誰がどんな想いで置いたのか
わからないが
花束はいつも
人の想いを担う
摘み取られ
根から切り離された花は
数日のうちに萎れ散りゆき
決して実をつけることはないが
そこに託された想いが
誰かに届いたとき
花束はその人の心のなかに
実を遺す
たとえそれが
喜びでの実であっても
悲しみでの実であっても
我らのうちに
深く深く沈みこみ
時を経て
更に熟して
形を変えて芽吹きだす
交差点の片隅に置かれた
小さな花束が
どれだけの実を宿しているかは
わからないが
それは
消えゆく命の
ただ滅するのではなく
いつかどこかで
形を変えて芽吹くことへの
切なる祈りを
担っているのだろう
たとえ眼に見えず
気づかれなくても
我らの内には
誰かから託された想いと
担った花束とにより稔る実が
常に届けられているのだ
ちょっとのことなんですけどね。この方が、より深いとこに行けるかな? と思いました。
でも、前回申し上げた、「どこかで具象と繋がらないといけない」「題材はむしろ具象の方がいい」を早速実践してくれていて、今回の方がぐんと良くなったと思います。
ああ、それから2連の「原動機付自転車」は、日常的な言い方で「原付バイク」でいいんじゃないでしょうか? こっちはたぶん、「バイク」という括りの中での排気量を識別する意の言い方なんでしょうけど、こっちの方が日常的な語に思います。
ちょっと細かなところあったんで、現状、秀作プラスにしますが、方向性はこれで合ってますよ。私の案を一考してもらったら、名作になれます。
●ゆきさん「家族写真」
少々ドラマチックに脚色しすぎた感はありますが、いいでしょう。名作を。
たぶん写真を撮ったのは、このタイミングじゃないんじゃないかなと思うし、家族の設定も、もしかしたら少し変えてるかもしれないのですが、これに類似した経験と、想いとして同じ想いを経験されてるのかなと思い、読みました。いずれにせよ、イヤな思い出、思い出したくもない種類の出来事でしょうに、しっかり捉えて書き上げてくれました。OKです。
祖母のところに行くというのは現実的ですし、
必要のない家族なら初めから
ない方が良かったのに
は、自分も含めて言ってる言葉だから、ものすごい肉声で、胸が締め付けられます。
心の奥底に隠してきた泥を
吐き出すように
写真の父を睨みつけた
の言葉もありますが、「幸せでない家族写真」ってあると思う。察するところあります。
また、
私達の何がいけなかったのか
は、親がやさしくしてくれないのは、自分が悪いからだと考えがちな子供の心理がよく描かれています。
でも本当は、子を虐待する親や子を捨てる親というのは、そことは全く違う、自分の都合だけを考えてる人が多いです。本当は、理由はそこじゃないです。子は全く悪くないんですよ。
心理的なところ、想い、よく考え、よく書けてると思います。
大雨のところとか、写真館からすぐ祖母宅へ行くところとか、無理に繋がなくてもいい気がしたけど、後半の心の部分、肝心なところはよく書けてるのでOKです。
むしろ子供の頃はよくわかってなかったけれど、大人になってから、よく状況がわかってその写真を見ると、苦々しく思う家族写真て、あると思う。この詩もそのへんがスタートかもしれません。
●じじいじじいさん「なつのわすれもの」
なんとなく翌朝起きたら、お母さんに捨てられてしまってそうな予感がしますが、まあそんなリアルは余談として、お話はおもしろいです。
砂浜に落ちてて、家に持って帰ろうと決めたところまではいいんです。そこまでは上手に書けてると思う。でも、それだけで「かぞく」とは呼ばない。「かぞく」とまで呼ぶには、まだ何かが足りない。もう一段上がる、何かがないとダメですね。
そこを作るか、作れないんだったら、着地点を「かぞく」とは違うところに落とすか、でしょうね。
このお話、「かぞく」という言葉がすごく重いんです。そのため、そことの不一致感が気になる。
たとえばね、その子にはお母さんがいなくて、お父さんしかいなくて、しかもお父さんはいつも仕事行ってていない。ひとりぼっちだから、なんでもすぐ家族にしたがるんです。たとえば、そういった必然性ですね。それならもう一段昇れます。
なので、この童話詩は、もうちょっと詰めないといけないと思います。
半歩前です。
●理蝶さん「夜のムード」
うーーむ、やっぱり理蝶さんて、何者?って感じだなあー 前回もなかなかセンセーショナルでしたが。
初連を読んで、銀英伝を思ってしまった私は、ちょっとオカシイかな……。あれもドイツ語の名前が多かったからなあー
それは余談かもしれないんですけど、なんでそんなことを思ったかというと、「小さい頃」で「原作・ドイツ語」となると、まずもってグリム童話を思うべきなんだけど、どっこいグリム童話って、短いお話が多くて、エンドレス感は全くないので、「一代記」とイメージが合わなかったからなんです。となると、何を想像すればいいのかわからなくなって、迷子になったあげく、銀英伝に行きついてしまったというお粗末でした。
というわけで結論、初連の「ドイツ語」は、なにを想起したらいいのかわかりませんでした。
なので、初連は1行目削除が私の案です。
「ドイツ語」を出してきて、特定の物語にするのでなく、むしろ1行目削除で、自分の将来の夢を天井に描いていたという意に変えてしまった方がいいと思います。
あと1点、
終盤の、「頭の良い子供」についてはOKなんですが、
あの頃は
理由もなく恋に落ち
キスだけが頬を染めたっけ
僕は寂しい目をしてた
フレームの外にある
何かを見ていた
友が戯れる様子か
ただの遠景か
の2つは、「小さい頃」の話ではないと思う。昔ではあるだろうけど、年代が違うものに思う。少なくとも読む側として、そう感じる。
初連で「小さい頃」とあったけど、詩全体を見た時に、年代がそこに定められていないと思う。そこがこの詩の難です。
もし、ざくっと昔の話として書きたいなら、そのような出だしにすれば良かったけど、これ、「小さい頃」で始めちゃってるから、読む方がそこの照準で、その後も読みにかかってしまいます。すると、途中で、年代の違和感が出る。
2ヵ所のうち後者については、前3行はいいけど、「小さい頃」基準で書くなら、後ろ2行の言葉は、そこ基準の言葉に変えた方がいいです。後者については修正可能です。
この詩は、3連の
もはや義務的に
明日に備えている
の視点が良くて、それと対照的となる子供時代の話を出してきた、このお話の骨格はとてもステキなのだけど、軸にブレがあるのが、ちょっと惜しい。
半歩前にします。
理蝶さんはレベルが高い人だとわかっているので、いきなりですが、そこに合わせてお話をしました。ちょっとキビシかったらゴメンナサイ。