糸切り鋏 妻咲邦香
色は黒いが蝿ほどは大きくはない
主菜の皿の傍らで翅を休め
じっとしている
我が家はドアも窓も締め切ってはいるが
何処かの隙間から匂いに釣られ
入ってしまったのかもしれない
もしくはきっと見えない所で
羽化でもしたのだろう
箪笥の裏に糸切り鋏が落ちて
そのまま忘れた
今思い出す
思い出すけど、明日取ろうと思っているうちに
また忘れる
虫は逃げない
生きてるくせに大人しい
糸切り鋏は生きてはいない
それなのに逃げる
私の記憶から
そそくさと逃げていく
ティッシュで虫をそっとくるむ
勝手口からぽいっと外に出す
乾いてはいるが固いとも柔らかいとも言い難い
小さいながらもその分の生命のかさは十分にある
そんな感触が指先に伝わって
私は世界が怖くなる
もう思い出さないものが
いつか私を訪ねてやって来る
長過ぎて持て余してる時間が
扉の外で待っていた
私が顔を出すのを
此処が貴方の食卓だとは知らなかった
薄明かりの空
低く立ち込める雲に握り潰されそうになっても
忘れないでいてくれたその人に
私は何と挨拶しよう
貴方にとって私は
大人しい虫なのかもしれない
静寂が手を伸ばす
私はそっとくるまれる
そしてぽいっと外に出される
外は暗いだろうか
それとも寒いだろうか
私はまたこの世界に潜り込む
空きを見て何度でも
飽きるまで
そして大人しく居座るのだろう
箪笥の裏で埃にまみれた糸切り鋏の
その傍らから覗いた食卓が
甘く豊かな香りを放つ限りは