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スレッドNo.123

ひまわり  Liszt

 市内のあちこちにバリケードが築かれ、その傍らで避難する人々
がごったがえしていた昨日までとはうってかわって、今日はひっそ
りと人通りの絶えた街路に、北国の短い夏の陽が差し込んでいる。
ときおり、バリケードを補強するために土嚢を運んだり積み上げた
りする兵士の姿を除けば、敵軍が間近に迫っているような気配はど
こにも感じられない。むしろ、のんびりした空気さえ漂っている。
そこかしこに立ち並ぶ教会や修道院の玉ねぎ型のドームは、柔らか
な金色に輝き、その白亜の壁に沿ってマロニエの並木道が続く様子
は、欧州の中でもとりわけ長い歴史を持つ、古い都にふさわしい。
 マヌエルは国立美術館のバルコニーの上に立ち、西に傾いた日の
光を半身に浴びながら、街の彼方、北東に果てしなく広がる平原に
目をやった。明日ともなれば、戦車部隊を中心とする敵軍の主力が
あの沃野を蹂躙して瞬く間に首都に到達し、市街戦が始まるだろう。
空爆も覚悟しなければならない。今、眼前に広がるのどかな光景と、
未来の避けがたい破局との落差に、マヌエルはただ戸惑うばかりで
ある。
 思い起こせば、総選挙の結果、民主派が政権を獲得したあの日、
歓喜に沸く支持者が街路に繰り出し、赤と青の国旗を打ち振り、国
歌を高らかに歌うのを耳にしたのもこのバルコニーではなかった
か?どちらかといえば、自分はあのときお祭り騒ぎから距離をとり、
この美術館が展示する絵画を眺めながら、静かに時を過ごすことを
選んだのである。なぜなら、民主派の主張する改革が急進的なあま
り、東方の大国との間に軋轢が生まれ、早晩、祖国の存立が危機に
さらされる、という不安が、眼前に繰り広げられる市民の熱狂が大
きければ大きいほど、却っていや増すのを感じたからだ。そして自
分が愛してやまない絵画の前に立つことで、少しでも穏やかな気持
ちを取り戻したかったのである。
 あれからわずか三年、懸念は的中してしまった。経済の立て直し
と安全保障の強化をねらって新政権が外交政策を大胆に転換したこ
とが国民の間に対立を引き起こし、それが口実となって他国の侵攻
を招く結果となった。いざ、そのときになって、援助を約束した国々
は躊躇し、今もって直接介入する気配はない。結局、戦闘で血を流
すのは我が国の市民と兵士たちだけだ。美しい国土は荒廃の一途を
たどっている。
 そもそも、我々は知り抜いていたはずではなかったか?革命を求
める人間の希望が必ず出会わなければならない挫折と混乱を。この
一世紀の間、真の自由と独立を目指した数多くの国で繰り返された
悲劇を。大国のエゴの犠牲となり、革命は流産し、共和国の夢は潰
え、粛清の恐怖が夥しい難民を生み出してきた、その幻滅の歴史を。
まるで古ぼけた白黒フィルムの中の出来事が、今、我々の目の前で
繰り返されているかのようだ。
 こんな虚無的な感情にとらわれながらも、マヌエルは共和国の軍
人の一人として戦う意味を必死に見出そうとしていた。そしてたど
り着いたのが、やはりこの美術館だった。
「大尉、ここにおられましたか。所蔵していた絵画と彫刻は、ハヴ
ェル教授のご指示のもと、移送の際に決して損なわれることがない
ように全て厳重に梱包しました。すぐにでも搬出できます」
バルコニーまで報告にやって来た若い兵士を振り返り、わかった、
と頷くとマヌエルは急いで屋内に入って階段を降り、教授の待つ一
階の大きな展示室に向かった。ハヴェルは絵画の修復技術の専門家
であり、政府の文化財保護委員会の座長を務めている。マヌエルと
は旧知の仲だった。
 すでに首都をあとにして西方の国境を目指して移動しつつある数
多くの避難民とともに、祖国の芸術家が残した偉大な遺産は、どれ
一つとして、敵の手に渡すわけにも、また、混乱の中で損なうわけ
にもいかない…そう考えたマヌエルが、ハヴェルに美術品の安全な
梱包と移送を指揮してくれるように依頼したのだ。
 展示室に入ったとき、白髪で痩身のハヴェルはマヌエルと兵士の
方に背を向けて、もはや一つの絵画も掛かっていない大きい真っ白
な壁をじっと見つめていた。その様子は、いつも見慣れた温和な書
斎人としてのハヴェルとはどこかが違う。悲愴な感情をじっとこら
えているように思われた。室内の柔らかな光線に照らされて、いっ
そう背が高く見え、まるでスペインの画家が描いた聖人のようだ。
その様子に一瞬気圧されながらも、マヌエルは語りかけた。
「教授、ご協力とご尽力に感謝します。梱包が完了してお疲れのと
ころ大変恐縮ではありますが、敵軍が間近に迫っています。もはや
一刻の猶予もありません。これらの美術品を直ちに国境に向けて移
送しますので、どうかご同行の上、指揮・監督をお願いいたします」
 ハヴェルは、相変わらず白い壁の前に佇んだまま、すぐには答え
なかった。その沈黙の時間は重たく緊張をはらんだものだった。や
がて老教授は、おもむろにこちらを振り返ると、壁のある一点を指
さしながら口を開いた。
「マヌエル、君は覚えているかね。ちょうどその位置に掛かってい
た、ひまわりの絵を」
「覚えていますとも。一面に咲き誇るひまわり畑の絵ですね。詩人
にして画家のウォルインスキイが描いた、忘れがたい一幅の絵。我
が国の美しい夏をあれほど印象的に描いた作品を他に知りません」
「今さっき、その絵を梱包しているときだったよ…息子の戦死を知
らされてね」
マヌエルは言葉を失った。と同時にすぐさま脳裏に浮かんだのは、
きのう国外へ避難させるために別れたばかりの妻と幼いひとり娘の
姿―「私たちのことは心配しないで」と涙一つ見せず気丈に振る舞
う妻と、これが父との永遠の別れになるかもしれない、などという
ことはわからず、ただただ、あどけない笑顔を浮かべている娘の姿
であった。
「志願兵として前線に行く、と言われたとき、私にはそれを思い止
まらせることができなかった。それもそのはずだ。誠実に生きるよ
うに、常に理想を持って生きるように、と教え育てたのは、この私
だから…。今になって、愛する祖国のために身を捧げようとする我
が子を「命を捨てに行くようなものだ」と言って押し止めようとす
るなら、それこそ甚だしい自己矛盾ではないか?そして、どうだろ
う!今、私はその全ての結果の前に打ちのめされている。あの絵の
ひまわりのように息子の人生が豊かに花開くことを妨げたのは、こ
のわたしではないか?」
 もはやハヴェルの声は苦痛に震えている。マヌエルにも、かける
言葉が見つからない。しかし、再び訪れた沈黙を振り払ったのは、
意外にも教授自身であった。
「すまない、取り乱したところをお見せしてしまって。これから敵
軍に立ち向かおうとしている君に対して恥ずかしい。私も目の前の
任務に全力を尽くそう。それこそ、息子に対して口が酸っぱくなる
ほど教えてきたことだから。今この瞬間も、敵の戦車が我が国のど
こかで、ひまわり畑を踏み潰しているかもしれない。それならば、
せめて絵の中のひまわりだけでも守り抜かなければ…。いつの日か
再び美術館の真っ白な壁に展示して、国民が、その絵の太陽のよう
な明るさから新たな『希望』を汲み取ってくれるように」
ハヴェルはこれだけ言うと、マヌエルに向かって手を差し出した。
二人がお互いの掌を固く握り締めたとき、老人の眼から堰を切った
ように涙が流れ落ちた。
「君、生き抜いてくれたまえ!」それだけ言うと、くるりと背中を
向けて、教授は展示室の出口の方へ歩き出した。その姿は、すでに
この世を離れた存在のように見える。マヌエルは傍らの、まだ少年
の面影を残す兵士を振り返ると、国境への移送の間、教授を精一杯
お助けするように、と命じて、急いで後を追わせた。
 今や広い展示室にひとり残されたマヌエルの耳に、中庭の噴水の
音が聞こえてくる。その静かで単調な調べが、今しがたのハヴェル
の震えがちな声と微かに響き合っている。掌にほのかな温かみが残
っているのに気がついたとき、マヌエルの心に「友愛」という言葉
がごく自然に浮かんできた。
 たとえ、劣勢が明らかではあっても、市街戦を少しでも引き伸ば
し、避難民が全て安全に国境を越えるまで、また、ハヴェルが美術
品を無事に国外へ運び出すまで、とにかく時間を稼ぎたい。虚無感
にとらわれている暇はない。軍人としての役目に徹しよう。
「決して目には見えない『希望』と『友愛』のために戦うことは、
果たして意味のないことだろうか?」
マヌエルは誰に言うともなく呟き、美術館を出て、バリケードの
確認に向かうのだった。

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 新しい掲示板では初めての投稿です。とても広くて見やすく、書きやすいです。
今後とも、どうか宜しくお願い致します。

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