感想と評 2/7~2/9ご投稿分 水無川 渉
お待たせいたしました。2/7~2/9ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。
なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。
●じじいじじいさん「おんなじ」
じじいじじいさん、こんにちは。「雑草という名の草はない」と言いますが、花も人間も、生きとし生けるものすべてに優劣はなく、みな同じいのちなんですよね。この主張には心から賛同しますし、特に社会の格差が拡大し、自然環境が破壊され、さまざまな種類の差別が横行する現代において、とても必要なメッセージだと思います。
そのことを大前提として申し上げた上であえてコメントさせていただきますと、他の評者の方々も言われていることですが、誰もが賛同する「正論」をただストレートに書いただけでは、詩としてのインパクトは薄れてしまい、せっかくのメッセージが読者に伝わりにくくなってしまうと思います。(偉そうなことを書いていますが、私自身も自分の詩について反省することが多いポイントでもあります)。なので、その大切なメッセージはそのままに、それを包む表現にもうひと工夫していただくと、もっと良い詩になるのではないかと思います。
具体的な提案としては、一般論ではなく個人の体験に落とし込んだ形で書くこと、描写をより具体的にしてみる(たとえば1連では一般的な「はな」ではなく具体的な花の名前を使ってみる)ことなどが考えられると思います。参考にしてみてください。
あと1箇所だけ、終連初行ですが、「いのちを差別してはいけない」とは言えますが、「いのちに差別はない」という言い方は日本語として不自然に感じます。「いのちにちがいなんてないよ」のようにしてみてはいかがでしょうか。ご一考ください。評価は「佳作半歩前」となります。
●秋冬さん「アート」
秋冬さん、こんにちは。改めまして免許皆伝おめでとうございます。ということで、私が評をつけさせていただくのも今回が最後になりますね。私が評を担当させていただいてまだ3回目ですが、そのすべての回に投稿してくださり感謝します。次回からは新作紹介で秋冬さんの詩を拝読するのを楽しみにしています。
さて今作ですが、「アート」は日本語の外来語としては一般に芸術や美術を指す言葉ですね(英語ではもっと広い意味もありますが)。けれどもこの詩の中で「わたし」はこの言葉を独自の意味で使っているように思います。「わたし」にとっての「アート」とは、芸術であれ人間であれ、自分の感性をかき乱すような得体の知れないもの、理解不能なものの総称と言ってもいいのかもしれません。初連にあるように、人は未知のものに名前をつけることによって安心するということがありますね。この詩は全編がこのように「わたし」流に再定義された「アート」をめぐって展開していきます。
「わたし」は自分に理解できない「アート」に対して嫉妬や憧憬を感じますが、全体的には肯定的に捉えているようです。けれどもジレンマも感じている。
わたしは
アート
になりたいが
わたしは
アート
にはなれない
の一連はとても気に入りました。「アート」を「他者」と言い換えても良いかもしれませんが、そうすると定義からして自分自身は「アート」にはなれないということですね。そして、世界にそんな「アート」があふれている現実をある種の諦めをもって受け入れる、という結論になっています。
(これは評から離れて個人的な感想になりますが、そういう「アート」との出会いは新鮮な驚きを生む機会として肯定的に捉える事もできるかと思いました。さらに、もしかしたらそういう得体の知れない「アート」は、自分自身の中にも潜んでいるのかもしれません。)
手垢のついた言葉に新しい意味を吹き込んで蘇らせる、というのは詩の持つ力の一つだと思います。ただし、それが読者に説得力をもって伝わらないと、壮大にすべってしまうリスクも伴うアプローチでもあると思います(私自身は怖くてあまり手を出せません)。この詩はそのような困難な課題に挑戦してクリアしているように思いました。評価は「佳作」です。
●たかあきさん「かえる」
たかあきさん、こんにちは。初めての方なので、感想を書かせていただきます。
かえるは昔から日本人の感性に触れる身近な生き物で、詩中にもあるように芭蕉(「古池や蛙飛び込む水の音」)や芥川(「青蛙おのれもペンキぬりたてか」)の俳句にもなっていますね。
まず初連がとても良かったです。雨の日の屋外でしょうか。ふと気づくと鮮やかな緑色のかえるが目に飛び込んできた様がよく表現されています。ここから終連の「どこかへ/消えた」まで、たぶん時間にしては短い間だと思いますが、かえるについての語り手のいろいろな思考が展開されていきます。それが生物学的な生態から食材としてのかえる、文学の題材としてのかえるに至るまで、いろいろな角度からなされているのが面白かったです。
一箇所だけひっかかったのが、最後から2連目の「ペンキ塗り立てか」です。過去作を拝見すると「ペンキ塗り立てみたいな/ガマガエルの体」という表現がありました。もしかしたらたかあきさんお気に入りの表現なのかもしれませんが、本作では芥川の俳句に言及されていますので、あからさまにかぶる表現は避けたほうが無難かと思います。芥川へのオマージュであることが分かるような書き方にするか、あるいは思い切って割愛した方が良かったかもしれません。
全体として親しみのあるいい詩でした。またのご投稿を楽しみにしています。
●侑輝。さん「曖昧・ミー」
侑輝。さん、こんにちは。初めての方なので、感想を書かせていただきます。
まず、英語のI, my, meをもじったタイトルがいいですね。「あいまいな私」という意味なのでしょう。(余談ですが、タイトルを拝見した時に私は大江健三郎のノーベル文学賞受賞講演「あいまいな日本の私」を思い浮かべました。たぶんこの詩とは関係ないと思いますが。)
詩の本文ではタイトルどおり、「あいまいな私」について最後まで語られていきます。最後から2連目の、ぽつんと置かれた「私」の一文字が、語り手の孤独感を表しているようで気に入りました。
一つ分からなかったのは、ところどころに出てくる対話が「私」の自問自答を表しているのか、それとも具体的な相手がいるのかです。恐らく後者だと思いますが、その場合はその相手との関係性がもう少し見えてくるように内容を補うともっと良くなるかと思いました。
気持ちがぐらぐら揺れて定まらない、そんな曖昧さ、不安定さは誰しも経験することだと思いますが、そんなとらえどころのない気持ちに言葉を与えて形にするところから詩は生まれてくると思いますので、目の付け所としてはとてもいいですね。また書いてみてください。
●森山 遼さん「コットンのセーターが好きなの」
森山さん、こんにちは。自慢にもなりませんが、私にはファッションのセンスや知識はありません。そんな私がこの詩にどんな評がつけられるのか、いささか心もとないですが、頑張ってみます。
冬には寒すぎて着ることができないコットンのセーターに対する愛着が綴られる短い詩ですが、お気に入りの服は、季節的にもう着られないと分かっていても、なかなか仕舞うことができないものですよね。そんな日常の一コマが垣間見られるような、いい詩だと思います。
この詩は他の森山さんの作品にも見られるような優しい語り口で書かれています。「僕」の「妻」に対する心遣いも感じられて、ほのぼのした気持ちになりますね。「~ね」「~の」という語尾もいい味を出していますが、全編にわたって繰り返されるとさすがにくどく感じる読者もいるかもしれませんので、もうすこし抑え気味に使うといいかもしれません。
一つ気になったのは、この詩が誰に向って語りかけているのか、という点です。親しげな語り口からすると「僕」の身近な人物かと思いますが、「妻が」とあるので子どもでないのは確実です。友人かとも思いましたが、男友達、女友達いずれもしっくり来ませんでした。いっそのこと、コットンのセーターに語りかける、という設定にしてもいいかと思いました。参考にしてみてください。評価は「佳作一歩前」になります。
●鯖詰缶太郎さん「そして、ちぐはぐなセッションはつづく」
鯖詰缶太郎さん、こんにちは。初めての方なので、感想を書かせていただきます。
この詩は「私」と「そのひと」との微妙な関係性がうまく描かれていて、とても面白く拝読しました。「そのひと」は職場の上司あるいは先輩でしょうか。人情味があって面倒見もいい、けれどもどこか抜けていて頼りない。悪気はないけれども有難迷惑なところもある。でも憎めない。そんな人、確かにいますよね。うんうんと頷きながら読み進めて行きました。
「私」は「そのひと」に恩義を感じているので、間違った作業工程(細かい点ですが「行程」ではなくこちらが正しい表記だと思います)だと分かっていながらそれに合わせている。そんな「そのひと」と「私」の「ちぐはぐなセッション」が丁寧に、絶妙に描かれていきます。最後の一行も含みのあるいい終わり方だと思います。またのご投稿を楽しみにしています。
●cofumiさん「流るる泪」
cofumiさん、こんにちは。常連さんの一人ですが、私が担当するのは初めてですので、感想を書かせていただきます。
具体的な理由は書かれていませんが、語り手は深い悲しみの中にいるようです。一滴二滴こぼれ落ちる泪くらいだったら指で拭き取ることができるけれども、それでは済まない。後から後から流れてくる泪をどうしたらいいのか。
語り手はその悲しみをガンジス川に流す灯籠のように手放そうとします。灯籠流しというと日本の風習のように思いましたが、ガンジスではヒンドゥー教の人々による灯籠流しも行われているのですね。私は今回調べて初めて知りました。自分を超えた何か大きな存在に向って悲しみを手放すことによって、心にやすらぎが与えられる。たとえまた泪することがあっても、それはガンジスの聖なる水のように清らかなものに変えられるということでしょうか。この作品はそんなスピリチュアルな雰囲気を持っている詩ですね。
初連の氷柱から滴り落ちるしずくといい、透明感のあるイメージに満ちた美しい詩でした。またのご投稿を楽しみにしています。
●成城すそさん「霧が晴れるまで」
成城すそさん、こんにちは。私は初めての方ですので、感想を書かせていただきます。
コンパクトで無駄のない構成と展開、二人称の話法でとてもうまく作られている詩だと思いました。「僕」はその語りかけている相手(密かに好意を寄せている人物でしょうか)に対して、なんとかかんとか理由をつけていっしょにいようと呼びかけていますが、4連でぽろりと本音が出てしまった感じですね。ここはくすりと笑いながら拝読しました。
全体としてくだけた語り口と繰り返しのパターンでテンポよく進んでいく詩ですが、そんな中でも「僕」は相手がいつかは去っていくことを予感しているようです。最終連の「まだ」と「時間はあるから」の間のスペースに、語り手の深く切ない思いが込められているようで、とても良いと思いました。またのご投稿を楽しみにしています。
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以上、8作品です。今回も味わい深い詩の数々をありがとうございました。